日本を代表する温泉観光都市大分県「別府」。
明治時代、湯治場としては有名であったが、ひとりの男がこの地を訪れ、やがて温泉観光都市として全国はもとより海外にまでその名を広めた。地域経済に大きな影響を与え、永く多くの人に愛された。
その男の名は、油屋熊八(あぶらやくまはち)。
油屋熊八は1863年、愛媛県宇和島で生まれた。30歳になった熊八は大阪に移り、相場や株式市場を学び、相場で巨万の富を得、相場師「油屋将軍」と呼ばれた。しかし戦後、経済の大変動のとき、一夜にして一文無しになった。
35歳になった熊八は、アメリカへ渡り、3年間、北米大陸を旅した。そして、日本への帰国を前に、サンフランシスコの教会で、世話になった牧師から聖書を学びキリスト教の洗礼を受けた。帰国後しばらく、相場師の道を続けたが行き詰まり、妻ユキの出身地、別府に身を寄せた熊八は48才だった。当事の別府は、地方の湯治場的存在だった。
ここで熊八は聖書の教えと言葉を思い出した。
「神様は今も働かれる。私もまた働こう。」
「旅人をねんごろにせよ」 (新約聖書 ヘブル人への手紙13章2節)
(旅人をもてなすことを忘れてはいけません。)
聖書の言葉をこれからの人生の土台とした。
熊八には別府が大きな可能性に満ちた地に見え、夢を抱いた。
そして、妻ユキの買った家で「亀の井旅館」を始めた。客間はわずか二間のみだった。しかし、この二間の客間に「旅人をねんごろにせよ」とのスピリットを活かした。熊八は、客をねんごろにもてなすために贅沢を二点に絞った。ひとつは極上の寝具を選び、万事衛生的に心を配った。また、大阪から一流の料理人を招き、一級の料理を作らせた。これが評判となり、客が増えていった。
当事、熊八の目には、別府は旧態依然の宿屋ばかりに見えた。客を呼ぶためには、さらに努力と工夫をしなければ「温泉」は宝の持ち腐れに終わってしまう、という危機感があった。(続く)
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