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油屋熊八


別府観光の祖となった男   油屋熊八

森正行氏著


熊八は自分の旅館のためだけではなく、別府の町全体を大切にした。
当時の別府港は桟橋がなく、船客には不評だった。熊八は別府の発展を妨げると思った。大阪商船の本社に乗り込み、桟橋建設を約束させ、完成した。船は毎日就航するようになり、大勢の客を運んできた。熊八は、別府の皆が潤うことを願っていた。
熊八はまた、別府宣伝のためにキャッチフレーズを考えた。
「山は富士、海は瀬戸海、湯は別府」。
大正14年、熊八はこのキャッチフレーズを標柱にして富士山頂に建てさせた。そして、全国各地にこの標柱を立てて宣伝した。
昭和2年、大阪毎日新聞が「新日本八景」の人気投票を行ったとき、熊八は大量にはがきを買い込み、別府市民に配り投票してもらった。別府温泉は全国一位に選ばれた。熊八は自費で水上飛行機をチャーターし、関西上空で「当選御礼、別府温泉」というビラを撒いた。
また、熊八は自動車を用いて観光客を呼び寄せることを考えていた。その結果生まれたのが「地獄めぐり」と「遊覧バス」だった。そして、そのバスに少女の案内役を乗せた。日本初の「バスガイド」だった。昭和二年、二十五人乗りの大型バスを四台購入し、翌年から日本初の定期乗合遊覧バスを走らせた。
しかし、これらの宣伝活動はすべて自費で行った。だから、亀の井ホテルの経営は楽ではなかった。
そのような熊八の周りには、不思議に有能な人材が集まった。熊八と共に別府宣伝、児童文化振興に尽くした梅田凡平。後に代議士となる宇都宮則綱。その他、多くの人々が熊八と意気投合し事業を広めていくところとなった。
熊八は誰とでも友人のように接し、人の地位には態度を変えることはなかった。また、ある時はホテルの客が従業員の失敗に怒った時、従業員をかばい、土下座までして詫びた。転職を望む従業員のためには、その世話までした。そして、身銭を切り自己の利益を求めなかった。新しいことを始める時は、地元の業者から反発を受けた。しかし、落ち着いて説得し続けた。
すべては隣人のため、地域の人々のため、お客のためだった。
しかし、そのような熊八にこそ、斬新なアイデアが生まれ、志を共有する者が集まり、事業も継続拡大していった。
「神様は今も働かれる。私もまた働こう。そして、聖書の言葉『旅人をねんごろにせよ』をモットーとしよう。」
そう心の中で決意したであろう熊八に、神様は聖書の言葉を実現された。


参考文献
○「地獄のある都市 油屋熊八と別府観光・地獄巡り」 社団法人別府市観光協会発行
○「Please No.138.139『観光地別府の未来を描いた男 油屋熊八』」 九州旅客鉄道株式会社発行

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