「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力を持って、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」 <エペソ人への手紙3:16>
哲学者イマニュエル・カントは生まれつき体が弱く、ひどい喘息でした。時々巡回してくる医者に診てもらっていたが良くなりません。
ある時医者は、毎日を辛い辛いと言って過ごしているカントをたしなめて言いました。
「苦しい、辛いと言っても病気は良くならないよ、それを聞かされる両親の身にもなってみなさい。しかも君の心は健康なんだよ、まず丈夫な心を持っていることを神に感謝し、そのことを喜びなさい。」
カントは医者のこの言葉で目覚め立ち直ります。カント17歳の頃の話です。
ハンディキャップを乗り越え、障害者への啓発活動を続けた岐阜県の主婦中村久子さんは、突発性脱疽という骨が腐る病気にかかり、3歳の時に両足は膝の下から、両手は上腕のところから切り落とす手術をしました。母親は、この娘が独り立ちできる何かを身につけさせてやりたいと、厳しい躾をしました。その結果、歯と唇を上手に動かして、口の中で針に糸を通し、その糸を結べるようになります。着物を縫い、セーターを編み、字も書けるようになります。
20歳の時、自立を決意し、その技術によって、24歳の時には自分の治療のための多額の借金をすべて返済し、結婚をしました。
しかし、その後の久子さんの人生も決して平穏なものではなく、夫に先立たれたり、子どもがなくなったりと、72歳の生涯を閉じるまで筆舌に尽くしがたい苦しみの連続でした。
久子さんに勇気を与えた一人の女性がいます。自分より更に大きなハンディを背負いながら、神戸女学院の購買の仕事をしている座古愛子さんというクリスチャンの女性です。彼女が、自分が生かされていることに対して、神と周囲の人々に感謝をもって生きている姿に感動し、励まされたのです。
昭和12年4月、久子さんが39歳の時、世界の聖女といわれたヘレン・ケラー女史が来日しました。東京の日比谷公会堂で日本の障害者に励ましの言葉を贈った後、久子さんのそばに来て、体に手で触れて、彼女の体をしっかりと抱きしめて、大粒の涙を流しながら「私より偉大な人」と言って泣きじゃくり、抱きしめた手を離そうとしなかったのです。
その二人の姿に、公会堂を埋めた人々は感動し、随所ですすり泣きの声があふれたのです。
久子さんは、昭和42年になくなられましたが『生きる力を求めて』『私の越えてきた道』などの著作や講演活動を通して、多くの障害者に希望と勇気を与え続けたのです。
神は私たち人間に無限の可能性を与えておられることは、中村久子さんや、座古愛子さんや、ヘレン・ケラー女史の生涯を通しても教えられることです。
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