戦 争 と 平 和 -1-
― パウロ アカギ カズヒコ ―
見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、
さいわいである。 ― ヨハネの黙示録 22・7 ―
― 「戦争と平和」 人間の罪と神の愛の歴史 ―
「歴史をつくるのは少数の英雄や為政者だけではない。神と民衆とによってつくられるのである」。19世紀の初頭、ナポレオンの侵入というロシヤが経験した未曾有の危機の時代を、雄大なスケールで描破した世界文学の最高峰「戦争と平和」(作家 トルストイ)には、こう書かれています。ナポレオンとアレクサンドル一世という2人の皇帝から、無名の戦士、農民にいたるまで、559人の人物が登場します。彼らには耐えしのばなければならない「戦争」はあったものの、楽しみ談笑すべき「平和」の生活はありませんでした。
当時のロシヤ社会は、官僚的専制主義に支配されていました。陰謀とへつらいの栄えるところでは、良心的貴族は当然疎外される運命にありました。アンドレイという名の20歳にも満たない良心的な青年貴族は、人生に幻滅感を抱いていましたが、勇気を出して戦場へと赴きます。それは勇躍出陣というよりも、戦争への逃避というべきものです。軍旗をもって突撃する瞬間、彼は幸福を見出しました。しかし、重傷を負って虚空を仰ぐとき、彼は人生の空しさに打ちひしがれます。戦争も彼の幻滅感を消しえなかったのでした。ナターシャとの恋の破綻も、彼の「人生への幻滅」からでした。「愛の神」に出会うまでは、誰一人として本当の「生きる目的」すなわち「人生への希望」を見出すことはできないのです。
「人間の流動性、すなわち同一人物が、あるときは悪人であり、あるときは知者であり、あるときは白痴であり、あるときは強者であることを明らかにすることこそ、芸術家の使命である」とトルストイは言っています。「戦争と平和」の最大のテーマは、すべてが時間の流れのうちに生起するものの、その時間の流れは均一であり、人間のパーソナリティは同一であっても、置かれた環境によって現れ方が変化するということです。「単なる自己犠牲は決してりっぱなことではなく、神に従って自主的な責任行動のとれない人間は、いかに同情に値する人間であろうとも滅び行く外はない、これが生命の大河の流れである」と言っています。
「生命の大河の流れ」すなわち「歴史の大きな流れ」の中で、「戦争」は人間の罪によってもたらされるものであり、「平和」は神の愛によってもたらされるものであることを明らかにすることがクリスチャン作家としてのトルストイの使命でした。
明治、大正、昭和、平成という激動の四代を「戦争と平和」のうちに生きてきたわたしの母は、100歳を超えて今も広島の地に健在です。「戦争の20世紀」と言われる「一世紀」を気丈に生き抜いてきました。しかし、「わたしの苦悩の連続は「放浪記」どころじゃあないよ。前半は戦争に明け暮れた暗黒の時代だったね。自由で平和な後半生をどんなに幸せに思ったことか。孫も大きくなった。平和な現代に暮らすお前たちは幸せよ。もし、わたしに文才があったら、きっと、いい歴史が書けるのに…」と常々語っていた戦争体験者の母は、96歳で認知症になりもはや書くことも話すこともできません。わたしは、戦後の物心ついてから以降のことは多少書けても、戦前のことはよく知らないため、母から聞いた伝聞が主となります。事実と相違する事柄があるかも知れません。また「歴史認識」もしっかりしていません。神に願い求める気持で、母のために母に代わって、この「あかし」を書きました。
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