ゴスペルストーリー
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欲望という名の電車」( Streetcar Named Desire ) 

― パウロ アカギ カズヒコ ―

わたしたちも皆、こういう者の中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人人と同じように、
生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
― エフェソの信徒への手紙 2:3 ―

― 欲望という名の電車 ―( Streetcar Named Desire )
「この町は、全国のどの土地よりも余計に、書く材料を私に提供してくれた。私の住所はフレンチ・クォーターのロイヤルという目抜き通りの近くにある。この通りの同一路線に、二系統の電車が、もと走っていた。一つには「欲望」、もう一つの方には「墓場」と書いてあった。この二系統の電車がロイヤル街を行き来するのが否応なく私の目についたのであるが、そのうちに、ふと私は、そのことが、フレンチ・クォーターに住む人達の生活に対して、何か卑猥な象徴的な意味を持っているような気がした―その意味では、何もこの区域だけに限らず、それが、どこであってもいいわけであるが…こうして私は『欲望という名の電車』という題名をつけたのである」とテネシー・ウイリアムズは、あとがきにこう書いています。

「欲望という名の電車に乗って、墓場と書いたのに乗りかえて、六つ目の角でおりるように教わってきたんですけど…。極楽というところで…」没落した大農園の娘ブランチ・デュボアは、名残の色香と上品ぶった教養を身につけていました。清楚に振舞う彼女は、姉より先にベルリーブの農園を離れてポーラックのスタンレー・コワロフスキーと結婚した妹ステラ・コワロフスキーを頼ってニューオリンズの、「極楽」という名の街にやってきます。

『欲望という名の電車』(テネシー・ウイリアムズ)は、1947年にブロードウェイを皮切りに、その後、各国で上演され映画にもなりました。ピューリツアー賞、ニューヨーク劇評家賞、ドナルドソン賞を次々に受賞したウイリアムズの最高傑作と言われます。日本でも1953年4月に初演されています。わたしは、これまで、この本の題名だけが記憶に残り、この作品に描かれている孤独や幻想、現実の葛藤、現実不適応者の悲劇、繊細と暴力、美と酷といった主題は、ほとんど理解できていませんでした。

物語の主人公ブランチは、南部の没落した大農園デュボア家の最後のひとりでした。逞しい肉体と粗野で現実的な生活信条をもつ労働者スタンレーと結婚し、こき使われるものの強烈な性生活に満足を見出した生活をしている妹ステラを頼って、この街に降り立ったのです。ベルリーブに残ったブランチは、同性愛者の夫の自殺が原因で酒と男性遍歴の生活を送り、孤独を紛らわせていました。やがて家屋敷を借金の抵当にとられ、高校からも追放されて、町のホテルに男を引きずり込む生活を送るようになりました。この荒んだ生活は、ブランチの神経をむしばみ、その結果、彼女は現実から逃避して古きよき時代の幻影にすがって生きていました。
ブランチの出現は、スタンレー夫婦の生活を掻き乱し、スタンレーは次第に苛立たしさと欲求不満をつのらせてゆきます。現実主義者で教養もないスタンレーは、ブランチの洗練された上品で教養のある優雅な身のこなしの背後にあるブランチの歪められた性衝動と欺瞞を感じ取っていました。スタンレーのポーカー仲間であり、ボーリング仲間でもある友人ミッチは、美しいブランチの誘惑に魅かれ、彼女に求婚して二人に結婚の希望が芽生えます。ブランチの正体のいかがわしさを嗅ぎ取っていたスタンレーは、ブランチの身上調査をした結果、彼女の過去の暗い正体、とりわけ性的乱行が原因で町にいられなくなった事実を掴み、その真相をミッチに暴露しました。こうして、ブランチとミッチの間には修復不能な亀裂が生じ、結婚の希望は粉々に砕け散ってしまいました。ブランチは、次第に神経がまいってゆき、風変わりな衣服を身に纏い夢想にふけるようになります。心身ともに追いつめられたブランチは、ステラが出産のため入院したその夜、ブランチへの反撥が性欲となって爆発したスタンレーによって犯されてしまいます。

打ちのめされた彼女はついに発狂してしまい、やがて精神病院に連行されるところで幕となります。人間の生きる欲望と絶望が交錯する悲哀を描いて「転落と狂気にわたしは墜ちていく…」のです。「現実の世界は、自己の創り出した世界よりも、強烈さにおいて劣っており、従って、現実の日常生活は、無茶な騒動でも、あまり実在的だとは思えないものだからである。芸術家にとっては単に仕事がやりやすいというだけではなく、どうしてもやられずにはおられないというようなのっぴきならぬ状態に身を置くことが望ましい。しかしこれはあまり簡単に割り切りすぎた言い草で、実は無気力な生活の誘惑から脱け出すということは、それほど容易な業ではない。「さあ、これから、前の生活に戻っていこう」などと、随時自分で決意するというようなことは、なかなかできるものではない。私は成功に見舞われた。しかし、苦闘のない生活の空しさを充分に悟った者は、それで済度されるための第一の方便を会得したことになる。人間の心情、身体、頭脳は、闘争を目的として白熱の櫨の中で鍛え上げられたものであり、その闘争がなくなってしまえば、その人間は雛菊を刈取っている利鎌のごときものであり、人間の最も恐るべき敵は窮乏ではなくして奢侈であり、そしてこの敵の武器は成功の女神につきもののつまらぬ虚栄、慢心、弛緩などといったものである。」と書いています。

 

 

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