第21話 経済活動と Identity の問題
107人もの命が奪われたJR西日本、福知山線の列車事故は、悲惨であった。遺族の心の痛みは計り知れない。原因の徹底究明が求められるべきだし、責任ある立場の人達は、それなりの処罰と賠償を覚悟しなければならない。
でも事故の報道が進むにつれ、「責める人」と「責められる人」の色分けがはっきりして来たことに、私は疑問を抱くようになった。「責められる人」は明らかに「JR西日本」の社員で、「責める人」はそれ以外の人達ということになる。直接的に事故に関わっていなくても、「社員」というIdentity
を有するだけで責めの対象になる。でも社員としての Identity は絶対的なものではない。JRが国鉄であった時、西日本と東日本の区別はなかった。もし今も国鉄のままであったなら、現JR東日本の社員も責められる側に置かれることになる。
現在社会では、会社の買収、吸収合併、分割等が日常的に行われている。自分の働いていた会社が知らない内にもっと大きな会社に吸収され、突然別会社の社員になったりすることがある。すると今まで無関係であった会社の不祥事の責任を、自分も負う羽目になる。逆に会社の分割があれば、本来は責任を負うはずの人が、無関係になったりもする。アメリカなどでは、労働者は自分の時間と技術を1日8時間1週間5日分だけ会社に買ってもらうのであって、会社に属する人間とはならないという概念が強い。これらのことを考えると、社員であるかないかで「責める人」と「責められる人」の線引きが行なわれることは、不適切である。
人間には社員としてのIdentity に優先する Identity がある。それは人間としての Identityだ。あのような大惨事が起こった場合、人間としての
Identity を優先させれば、現場近くの会社が救援隊の到着の前に救助活動を行ったように、事故に対する言動が異なって来る。JR西日本の社員が事故発生後にゴルフをしたり宴会をしたことは、非常識極まりないというニュースが連日流された。事実そうかも知れない。でも日本のいたる所にあるゲームセンター、飲食店あるいは娯楽施設等が、全て閉鎖になったという話は聞かない。事故後も普段通りに飲み食いを楽しみ、現場に駆けつけ助けようとは思わない人達が、宴会をしていた人達が「JR西日本」の社員という理由だけで、ぼろくそに言えるのだろうか?
聖書の中に、いつも自分だけは正しいと思い込んでいた人達の話が出てくる。ある時、偽善者パリサイ人は、自分がいかに潔癖であり、近くにいた取税人がいかに罪深いかを神に訴えた。しかし神に義と認められて家に帰ったのは、取税人の方だった(ルカ18:14)。
この鉄道事故の責任追及の中で、日本中がパリサイ人になってしまったのではないだろうか?こんな態度が改まらないと、多くの自殺者を出すことになる。
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