第45話 労働報酬 vs サポート
労働報酬に関して、聖書には一見不合理に思えることが書かれている。それは1日1デナリのぶどう園での仕事で、朝早くから働いていた人も、終わる寸前の5時ころから働き始めた人も、皆同じ賃金をもらった話である(マタイの福音書20:1-16)。もちろん朝から働いた人たちは文句を言った。このたとえ話は経済理論を教えることを目的とはしていないが、少なくともそこには経済的ごまかしは無い。なぜなら実際の労働量より低い賃金を支払われた人がひとりもいないからだ。
信仰の中にお金と労働の位置づけがしっかりしていない場合、すなわちお金が「臭いものには蓋をしろ」的概念で扱われた場合、表面上信仰的に見えて、実は不正が正々堂々と行われる可能性がある。私は米国に留学した最初の夏、ある教会で草刈やペンキ塗りのアルバイトをした。1時間2ドルという労働基準法で定められた最低時給で約2ヶ月程働いた。いつ労賃がもらえるのか良くわからなかったが、とにかく一生懸命働いた。夏休みもそろそろ終わりに近づいて来たので心配になって来たが、やがて最後の日曜日にまとめて支払われることになった。それも礼拝の中で。礼拝が終わると牧師は私を講壇に招き、会衆に向かって私の奉仕に対するねぎらいのことばを語った。そしておもむろに小切手を取り出し、「これが私達教会から貴方への献金です」と言って私に手渡した。それに合わせて会衆全員が拍手した。当然私は会衆に向かって「献金」の感謝のことばを述べることになった。もらった小切手には私が労賃としてもらうべき額が書いてあった。おそらく会衆は、私が2ヶ月間無料奉仕をしたので、感謝の印として献金が渡されたと思ったであろう。講壇の上で、信仰的雰囲気の中で正々堂々と不正が行われたのだ。私は1時間2ドルの約束で2ヶ月働いたのであり、その報酬は献金やサポートにすりかえることは許されない。又全会衆の前で感謝を述べる性質のものでもない。電気屋、ガス屋あるいは電話会社が、教会の使用料を礼拝の中で献金として受け取ることなどあり得ないのと同じだ。
私のショックはかなり大きかった。労働報酬とサポートが信仰の中できっちり位置づけられていないことの悲惨をもろに味わってしまったのだ。良く考えると、教会の奉仕者たちに対する報酬が、非常に曖昧である。もしサポートなら、無条件で渡されるべきものであり、働きの成果の大小に関係ないはずである。でももし労働報酬であるなら、サポートするとか献金を渡すという概念を捨てなければならない。なぜならサポートや献金はもらう人に負い目を負わすことになるからだ。当然受けるべきものに対して、負い目を感じる必要などないのである。
お金は、神が提供して下さる無限の富の一部が交換し易い形で流通しているものなので、正しく管理されなければならない。でないと「信仰的」不正が続くことになる。