凍てつく冬のある日。私は机に向かいながら、壁に掛かる一枚の写真をぼんやりと眺めていた。すると、ふと懐かしい思い出の日々が私の脳裏に走馬灯のように蘇ってきた。
二十八年前の正月、常夏の国・シンガポールの我が家で私たち家族は、リックマン一家と肩を並べてカメラの前に立っていた。自動シャッターがカシャッ、と小さな音を立てて下りた瞬間、皆そのカメラに向かって微笑んでいた。
中でも中央であっかんべえの仕草をして得意満面の私の長男は、すこぶる印象的だ。その姿は皮肉にもその日、私がリックマン夫妻に示した拒否的な態度を象徴しているかのようにも見えた。
実は、この日は私が生まれて初めてキリスト教と出会った運命的な日だったのである。
リックマン夫妻が我が家を訪れた経緯は、こうだ。
「博子、シンガポールで落ち着いたら是非、リックマン夫妻を訪ねてね」
「えっ、カレン、それって誰なの?」
「私の親友。リックマンはアメリカ人。奥さんは直子」
「そう、分かったわ。じゃあ元気でね」
私の妻はシンガポールに発つ前にカレンとこんな会話を交わしていた。カレンとは、私たちの友人で英会話の教師をしていた。陽気で利発なカレンの日本語は、流暢だった。
カレンは妻に対して、初めての海外生活はさぞかし心細いだろう、と気遣って彼女の友人を紹介してくれたのだった・・・・・・。
一九七八年十月、私に遅れること三ヶ月、妻と三人の幼い子供たちは、シンガポール国際空港に降り立った。その時の四人の姿を私は今でも忘れることが出来ない。
妻は、四歳の長男、三歳の長女を両手に引き、一歳の次男をおんぶ、といういでたちで出迎えロビーに姿を現した。妻の疲れ切った表情から、夜行便の機内でのやんちゃな子供たちとの悪戦苦闘ぶりが容易に想像出来、私は失笑を禁じ得なかった。
私たちの初めての海外生活は、当初、期待と不安で一杯だった。私は月の大半をアセアン諸国への出張で費やして、ほとんど家を留守にしていた。一方妻は、見るもの聞くもの総てが新鮮で毎日、楽しく過ごしていた。英会話もそこそこ通じるので、生活面での不自由はあまりなかった。
しかし妻は、留守がちな私に加えて、常夏の気候の下、変化に乏しい生活に慣れ親しむうちに、心の中に小さな虚無感のようなものが生まれてきたようだった。そこで妻は、カレンの別れ際の言葉を思い出し、リックマン夫妻にコンタクトを取ったのだった。
一九七九年一月元旦。シンガポールで初めて迎える暑い正月。妻が私にリックマン夫妻をカレンの友人だと紹介した。妻は彼らが敬虔なクリスチャンであることと、自分がすでに直子が導く家庭集会で聖書の学びを始めていたことを私にひた隠しにしていた。
一通りの挨拶とお互いの家族の紹介が終わり、四方山話に花を咲かせている最中に、突然、
「イエス・キリストは・・・・・・」と、リックマン氏が切り出した。一瞬、私は固唾をのみながら、
「ちょっと待って!」私は間髪を入れずに強い口調で彼の二の句を遮った。
日頃、無神論者で通していた私は、初対面の外国人の口から突然漏れた「イエス・キリスト」の一言に反射的に拒否反応を示してしまった。しばらくの間、気まずい沈黙が続き、妻がその場を取り繕うために話題を変えた。
そんな大人たちの間に漂う険悪な雰囲気をよそに、我が子と夫妻の愛娘シイアちゃん(二歳)たちは、もうすっかり仲良しとなって家中をキャッキャとてんいむほう天衣無縫に飛び回っていた。ブロンドヘアのショートカットのシイアちゃんは、まるでフランス人形のような愛くるしい子であった。
その時に記念に撮ったのが件のあっかんべえの写真で、今では我が家の宝物になった。
国際化の激しい荒波の中で、私は団塊世代の企業戦士としてアセアン諸国の各地を東奔西走し、商品の販売促進活動に従事していた。
一方で妻は、私の心身の健康を気遣いながら、教会に通い始め、聖書の学びと祈りの生活を送っていた。
ある日、妻が私の思いも掛けなかったことを口走った。
「私、洗礼を受けて良いかしら?」
「えっ、何っ?」
その瞬間、私はとうとうこの時が来たかと思いつつ、妻がもうすでに私の手の届かない遠いところに行ってしまったかのような驚きとせきりょうかん寂寥感におそわれた。又、将来、私たちは同じお墓には入れない、などと妙なことに思いを巡らしていた。
妻の頑固な性格を十分すぎるほど知っている私は、妻の一言は彼女の固い決心を意味し、私にはもう止めることは出来ないものと諦めていた・・・・・・。
洗礼の日、私は妻と子供たちを教会の入り口まで送り届けるのがやっとで、私は妻の記念すべき洗礼式にとうとう立ち会わなかった。
妻は洗礼を機に新しく生まれ変わった人のように、祈りと喜びと感謝に満ち溢れる生活を送り始めた。
一方、私の仕事は多忙を極め、心身のストレスと疲労は頂点に達していた。私はアルコールの力を借りてその疲弊しきった心をかろうじて癒やしていた。
教会に背を向けていた私も、クリスマスページェントで我が子がイエス・キリスト誕生の劇に出演するとあって、生まれて初めて教会の門をくぐった。
常夏の国での、季節に不釣り合いなクリスマス。街の賑わいをよそに静かな神聖な教会でしみじみと味わう本当のクリスマス。子供たちが喜々として演じ歌うイエス・キリストの降誕の物語は、誠に感動的で頑なな私の心を和ませてくれた・・・・・・。
しかしその後、私を待っていたのは大きな試練だった。順風満帆の仕事に逆風が吹き始め、何もかもが上手く行かなくなった。
やがて私は教会に導かれるようになり、日本から派遣されたG宣教師から聖書を学び始めた。教会の礼拝と時には家庭集会を通して、妻と共に貴重な学びの時を持った。感謝であった。
やがて四年半に及ぶ駐在員生活に終止符が打たれ、一九八三年一月、私たちは様々な思い出がいっぱい詰まったシンガポールを後にした。
常夏の国から真冬の日本へ。
季節が逆転するように私たちの生活も一変した。
まず、子供たちが伸び伸びとした自由な環境から閉鎖的な日本に移り住み、大きなカルチャーショックを味わった。妻は我が子へのいじめや不登校に直面しながらも、祈りを欠かさずにキリスト教への信仰を尚一層強めていった。
一方私は、毎週、日曜日を無為に過ごしていたのだが、日本の教会に転入会した妻に背中を押されて、再び教会の礼拝に通い始めた。
神様のなさる御技は不思議である。一九八六年、秋の特別集会で高齢のO牧師は会衆に向かって声を振り絞りながら、熱心に説いた。
「今です! 今、イエス・キリストを心に受け入れて決心してください!」という力強いメッセージに、私は心が震える思いで聴き入った。その時の心の高ぶりは中々止まず、翌日まで及び、私はついに受洗する決心をした。
私の罪の償いのために身代わりとなって十字架に架けられたイエス・キリストを信じて、新しく生まれ変わりたいという一心で、私は、一九八六年十二月二十二日のクリスマス礼拝で受洗した。その日、誰にもまして喜んでくれたのは他ならぬ妻であった。
私の受洗後、家族揃っての教会生活がスタートした。雨の日も風の日も又、雪の日も日曜日には熱い思いで教会に通った。私も少なからず教会の奉仕に携わり、一信徒として充実した日々を過ごしていた。
数年後、私たちの熱い祈りが叶って長女と次男が相次いで受洗した。大きな恵みで感謝であった。残るのは長男ただ一人。あの写真の中でカメラに向かってあっかんべえをしていた長男だ。彼は当時の私のように、キリスト教に対して頑なに心を閉ざし、教会に背を向けていた。
働き盛りの私は、多忙なサラリーマン生活の中で、大きなストレスと闘いながらも好きな聖句を心の支えとして過ごしていた。
「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない」(ローマ人への手紙 五章三―五節)
そんなある日、突然、私は原因不明の耳鳴りにおそわれた。診断の結果、突発性難聴と判り、三週間の入院を余儀なくされた。点滴が唯一の治療法という難病で、不安と苛立ちの中で悶々とした日々を病床で送った。
一刻も早く退院して職場に復帰したいという焦燥感にかられて、病室の窓に映る青空や夕日に向かって一心不乱に祈っていたことを、今でも昨日のことのように思い出す。
耳の中では依然としてセミがジージー鳴いているような耳鳴りが続いていた。しかし、医師に、「これ以上の聴力の回復は望めない」との診断を下され、しかたなく退院した。
その頃、私は旧約聖書の詩篇二十三篇を何度も繰り返して暗誦していた。
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。・・・・・・たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。・・・・・・」
罪人であり人間的に弱い私は、全知全能なる神の愛により頼んで生きていくしか道はないと思った。結局、私は耳鳴りという現代医学では完治できない持病と上手に付き合って行こうと心に決めた。
ところが、そうこうするうちにバブル経済が崩壊し、私は突然、三十一年もの長い間、滅私奉公してきた会社から早期退職を余儀なくされた。
「私が? 何故だ? どうして?」という思いで頭の中が真っ白になった。人が信じられなくなった。
まさに青天の霹靂であった。
不況の最中、私は再就職もままならず茫然自失のままに日々を送った。挙げ句は傍目を気にするあまり家に引きこもり、将来への不安と焦りから逃れようとして、妻の制止も聴かずに次第に酒に溺れていった。
成人した三人の子供たちは、しょうすい憔悴しきった私の姿を目の当たりにして、不安を隠しきれず、時折、ぼうだ滂沱の涙を流していた。私はその姿を目にする度に胸がつぶれる思いであった。その時の状況は今でも筆舌に尽くしがたい。
そんな時。妻は何時も子供たちに向かって、
「お父さんはね、長い間一所懸命に働いてきたのよ。だから今は神様から休むときが与えられているの。そっと見守っていてあげようね・・・・・・」と、励ましていた。
私が長く辛い引きこもりの生活をしている間に、なんと、あのあっかんべえの長男が、皆の祈りと導きに支えられて信仰の決心をし、受洗した。あっかんべえはもうやめたのだ。
私たちが夢にまで見た長男の受洗。幸いにして、同時に受洗した女性が長男の嫁となり、我が家は一挙にクリスチャンファミリーとなった。
聖書の御言葉は力強くて励まされる。
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(コリント人への第二の手紙 十二章九節)
「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル人への手紙 十三章五節)
神様に向かって、十字架に向かって目を上げ、心から祈り続ければ何時しかその祈りは必ず神様に届き、聞き入れてくださる、と私はそう信じて疑わない。
長男夫婦を加えた家族の祈りは神様に届いた。
二〇〇四年八月、妻と私と長男夫婦は転居して新しい環境の下で一緒に生活を始めたのである。新天地で教会での礼拝を中心にした生活が、私を変えた。
のどかな里山と田園風景、緑豊かな山林、木々をさえずりわたる野鳥の群れ。四季折節に移り変わる風景に感動し、祈らずにはいられない私が、そこに居た。
最近、私の母が、私に向かってしみじみとこう言う。
「幸夫、博子さんに感謝しなさいよ。博子さんだから耐えられたんだからね。偉いよ、博子さんは・・・・・・」
私も本当にそう思う。でも、もしも妻がそれを聴いたら、きっとこう言うに違いない。
「私たちが感謝すべきお方は他におられます。それは何時も私たちと共に居てくださり、導き支えて下さる愛なるイエス・キリストです・・・・・・」と。
シャローム
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