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神様からのメッセージ
-聖書は偉大なラブレター

浜島 敏著 イーグレープ刊


第一章 聖書について


聖書って誰が書いたの?
  今さっき、神さまが書いたお手紙が聖書だと言いました。だったら、神さまが書いたということになるのですが、神さまが鉛筆やボールペンを持って聖書を書いていったのでしょうか。そうではないのです。実際にペンを握って聖書の言葉を書いたのは、人間でした。モーセさんとか、ペトロさんとかいう普通の人間でした。神さまは何でもできるお方ですから、もちろんそのつもりになったら自分でペンをとることもできたかも知れません。しかし、そうしないで、いつも神さまのことを信じて、神さまにお仕えしている人たちを使って書かれたのです。大きな会社の社長さんなどは、あんまり自分で手紙を書いたりはしません。秘書を呼んで、これこれこういう内容の手紙を書きなさい(ときどきは、口述と言って、自分で言う通りを書かせることもあります)と指示して、秘書が、社長さんの指示した内容の手紙をワープロで打つのです。そして、社長さんに仕上がりを見てもらって、社長さんがそれでよろしい、ということになるとハンコを押してくれますので、それを封筒に入れてポストに入れることになります。その手紙は、たとえ実際には秘書が書いたものであっても、差出人として自分の名前を書くことはありません(ときどき、この手紙をタイプしたのは、私です、という意味で手紙の隅に名前を書くこともありますが)。差出人はあくまでも社長なのです。
  それと同じように、神さまが人間に伝えたいことを、たとえばモーセさんが書きますと、それに聖霊なる神さまがハンコをペタンと押して、これでよろしいと言われたのです。だから、聖書は実際にペンをとって書いたのは確かにモーセさんなどの人間かも知れませんが、実は神さまが書かれたと言って構わないのです。
  聖書の中には、「聖書」は神さまの息が吹き込まれていると書かれています。それがそういう意味だと考えて良いと思います。聖霊なる神さまの息が聖書には吹き込まれているのです。だから、この本は、普通の本とは大変違うのです。また、私たちは、この本をいい加減ではなく、本気で読んで、神さまは私に何をして欲しいと思っていらっしゃるのかを知る必要があります。その内容は一言で言えば、「どうしたら幸せになれるか、またどうしたら天国に行けるのか」と言うことです。ですから、本当の幸せを知って、幸せな生活をするためには、また、天国に行きたいと思えば、どうしても聖書を読むことが必要なのです。どうか、聖書を読んで、本当の幸せを自分のものにしてください。

 神さまの指示によって、聖書を書いたのは、四十人ほどの人だと言われています。その中には王様もいましたし、学者やお医者さんもいましたが、あまり学問のない漁師や、外国に納める税金を集める仕事でみんなからはとても嫌われていた人もいました。また、神さまから特別にお言葉を伝えるように示された預言者という人たちもいました。もともとは、そういった人たちの書いた手紙だとか短い本だったのですが、それらはまとめられて、一冊の聖書となりました。大きく二つの部分に分けられ、前の方を「旧約聖書」と言い、後ろの方を「新約聖書」と呼んでいます。旧約聖書は三十九冊の文書が集まっており、新約聖書は二十七冊からできています。旧約聖書というのは、イエス・キリストが生まれる前までのことが書かれ、新約聖書にはイエス・キリストが生まれてからのことが書かれています。旧約聖書はユダヤ人の言葉であるヘブル語で書かれ、新約聖書は昔の国際語であったギリシア語で書かれています。でもその中心人物は、どちらもイエス・キリストなのです。ちょっと待ってくださいですって? そうですね。イエス・キリストが生まれる前の旧約聖書の中心人物がイエス・キリストであるというのは、ちょっと奇妙に思うかも知れませんね。実は、旧約聖書の中でイエス・キリストがどんなお方であるか、またその仕事が何であるかが前もって書かれているのです。おどろくべきことに、イエス・キリストが生まれる場所までちゃんと書いてあるのです。そして、イエス・キリストが旧約聖書に書かれているとおりに生まれ、旧約聖書に書いてあるとおりのことをなさったのです。やっぱり聖書は何もかも御存じの神さまが書かれた不思議な本だと言うことが分かりますね。人間には、明日のことも分かりませんが、神さまはすべておわかりになって、イエス・キリストの生まれる何百年も前に、イエス・キリストのことをお書きになったのです。

聖書を正しく伝えた人たち
  昔は、今のように本は印刷できませんでした。ですから、みんな手で書いたのです。大変ですね。今は本屋さんに行けば何千冊、何万冊という本があって、どれにしようか迷うくらいですが、昔は全部手書きですから、そんなにたくさんの本があったわけではありません。今読んでくださっているこの本を初めから全部手で写してみようとして、実際にやったとします。一日ではできませんよね。何日もかかります。それが聖書全部ときたらこれは大変です。このためだけに時間を使ったとしても何ヶ月もかかるに違いありません。休み休みだったら何年もかかるかもしれません。気の遠くなるようなお話です。それでも、聖書が欲しいと思ったら、写すしか方法がなかったのです。
  それだけではありません。みんなが本を写すと言っても、長い本ですから、写し間違いをしてしまうこともあります。みなさんが聖書一冊全部写したとしましょう。もとの本のとおり一つも間違いのないように写すというのは大変なことなのです。おそらく無理でしょう。もし、その間違って写したものを次の人が写すとまたどこかが違ってしまいます。そんなわけで、何百年も経つと、モーセさんが書いたものとはかなり違ったものになってしまう恐れがあります。
  聖書は神さまが書いてくださった大切な本なのに、もし間違っていたら大変ですね。そこで、やがて聖書を写すことを専門にする学者が生まれ、絶対に間違えないように注意に注意を重ねて写しました。写し終わって、前のと比較し、もしどこか間違っていることが分かったら、すぐ直しました。また間違いがいっぱい(一ページに三つ以上)あることが見つかった場合には、新しいものでも捨てることにしていました。間違っている聖書を本物だと思ってみんなが読んだら困るからです。それほど学者たちは神経を使って、間違った聖書が出回らないようにしていました。
  聖書の最初の部分はモーセさんが書いたと言われていますが、それは、今から三千五百年ほど前に書かれたものです。そんなに古いものなのですが、そのように学者たちが正確に伝えてくれましたので、初めにモーセさんが書いて、神さまが承認のハンコを押してくださった元の聖書とほとんど同じものを今でも読むことができるのです。そのように、聖書を守ってくれた人たちに感謝をしましょう。
  でも、聖書があると困る人たちもいました。不思議に思うかも知れませんね。だって、聖書は世界で一番大切な本ですし、みんなに関係のある本だから、大切にしなければならないと思うでしょうが、中にはそれがいやな人もいました。聖書は私たちの心を写す鏡のようですので、これを見ると、自分のみにくいことが分かってしまいます。ニキビがいっぱいついている自分の顔など鏡で見たくないと思う人がいるかも知れません。だから、鏡など嫌いだという人がいるかも知れません。でも、考えてみてください。鏡がなかったらニキビはなくなるでしょうか。そんなことはありませんよね。やっぱりあるのです。どうせそうだったら鏡でしっかり見て、クリームをぬるなり、薬を付けるなどして早く直したほうが結局は良いのですね。ちゃんと治療をしておけば、かえって後まであとが残らないですむのです。それと同じなのです。自分の暗いところや、みにくいところを知られたくないので、それを隠そうとする人がいるかも知れません。聖書を読んで、自分のみにくいところが見えたら困ると思っているのでしょう。でもそれで悪いところがなくなるわけではないですから、早く悪いところを見つけて、その始末をした方が良いですよね。聖書が嫌いな人は、その人の心が暗いからだと聖書に書いてあります(ヨハネ三・二〇)。
  中には、なんでも自分勝手にしようと思う人(特に支配者)は、やはり聖書が好きではありませんでした。聖書の教えと違っていることを自分がしていることに、みんなが気がついてしまったら、その人たちを支配しにくくなって困ると思ったのです。おもしろくないものですから、なんとか聖書など、この世になければいいと思ってしまうのです。それで、いろいろな工夫をして、聖書を地上からなくしてしまおうとしました。昔、ローマという国では、皇帝が聖書を集めるだけ集めて、みんなの見ている前で燃やしたりして、この世から消してしまおうとつとめました。けれども、結局聖書はなくなりませんでした。それは、神さまがどうしてもみんなに知って欲しいことを書いていらっしゃる大切な本なので、それを神さまが地上から消えないように守ってくださったからです。神さまが必要だと思って書いてくださったものですから、神さまが責任を持って守ってくださったのです。
  日本でも、第二次世界大戦のころ、日本の政治家はキリスト教をとても嫌いました。当時、日本は外国に攻めて行って、そこの国の人を殺したり、その大事な土地を取り上げたりしていましたが、それが、正しくないと言われたら困るからです。また、当時は天皇が神さまだと言っていました。それで、本当の神さまなど拝まないで、天皇を拝みなさいと命令しました。クリスチャンは、そんなことはできませんと言ったため、たくさんのクリスチャンが牢屋に入れられました。中には、牢屋で亡くなった人もいました。でも戦争が終わり、日本でも自由に聖書を読んで、神さまを信じられる時代になりました。
  実は、世界の中には、今でもキリスト教を憎み、聖書を禁じている国があります。そんな国にキリスト教を伝えに行こうとする宣教師を捕まえて、追い出したり、悪いときには、殺したりします。また、そんな国に聖書を運んでいる人たちもいますが、見つかると、聖書は全部取り上げられてしまいます。早く、どこの国でも自由に聖書が読めるようになると良いですね。

聖書


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