稲垣 1番が「聖書とキリスト教哲学」2番が「聖書と経営哲学」3番が「精神性についての新しい考え方」、とありますが、2番の「聖書と経営哲学」を皆で話し合ってキリスト教から経営哲学が可能なのか、そういうところへいけば面白いなと思います。
(はじめに 時代の転換期と哲学の役割)
─ お互いに意見を出し合いながら、何か新しいものが生まれてくる、そういうことを期待しながら話し合っていきたいと思います。今回この対談を企画した趣旨ですけれども、ひとつは日本の経済社会、特に経営にあたっている我々が大きな転換期に直面しているのではないかということです。この転換期については、もう少し話し合いの中で掘り下げてみたいと思います。直感的にそう感じている方もいらっしゃるでしょうし、ある部分的な現象の様々な変化を捕えてそう考えている方もいらっしゃると思います。そういうものを出し合いながらまずどういう意味での転換期なのかということ話し合いたいと思います。そして歴史が転換して社会が変わって新しい枠組が生まれくる時、その新しい枠組を造る際大きな力になるのが実は哲学ではないか、と考えました。社会観とか世界観については、我々は毎日忙しさに取り紛れてあまり考えない。しかし今はもうそういう時代ではなくなってきているのではないか。やっぱりもう一度根本的なところをきちっと考えて足場を固めてどういう風に進むか、決めなければいけない時期に来ていると思うんですね。
もうひとつ私たちはそれぞれクリスチャンとして生きておりますし、又会社経営にも携わっているのですけれども、往々にしてクリスチャン経営ということについては少し特殊な経営ではないかと一般社会からは思われているふしがありそうです。個人的な事柄で恐縮ですけれども、私は20代の時クリスチャンになったんですけれども、父は将来自分の会社を継がせる考えでいましたので、私がクリスチャンになると非常に甘い経営をするのではないか、あるいはきれいごとばかり言って世の中に通用する経営ができないのではないか、そういう心配を口にしました。経営というのは清濁合せ飲む世界だ、清だけではやっていけないと父は心配して、クリスチャンになることに反対したわけではないですけれども、強い懸念を私に伝えたことを覚えています。社会からは、たまたま私のケースですが、ある程度そんな風に見られているところがあるのではないかな、と思います。ここで、「いや、クリスチャン経営こそがこれからの時代本当に必要なんだ。求められているんだ」というようなことがこの話し合いの結果として出てくれば、非常に有意義なことではないかと考えています。
それでは前もってお送りしたレジュメに基づいて、キリスト教的な世界観をきちんと反映した独自の経営哲学をそれぞれの持ち場でもって築いていくための考え方を今回の対話を通して探り当てたい、というのがひとつ。
そしてもうひとつ、これは恐らくそうなるかな、と期待しているんですけれども、経営の公共性というところに到達できたら、新しい世界を見ることができるんじゃないかなと、こんな風に考えています。
(哲学とは何か)
─ テーマは全部で14用意いたしました。稲垣先生がお書きになった(生きる意味を求めて)「キリスト教哲学入門」からですね、第1回目として「聖書とキリスト教哲学」、この中の「意味と宗教」がベースになっている可能性があると思いますので、ここは少し丹念に学んでいきたいと思います。哲学とキリスト教について、2箇所から私が抜粋しました。まず「一般の世界では様々な分野、緒科学を統一していく学問は科学ではなく哲学と呼ばれている。」哲学は自分の心と世界を知りたいという欲求から始まった。因みに辞書の新言海を見て見ますと、愛智、智を愛する。詳しい説明としては、「すべての知識を統一し、その事物に関して究極の原理を求め、根本的な説明を与えることを目的とする」。こんな風に説明しています。哲学とは、ということについて、先生からご説明をお願い致します。
(ソフィアからスキエンティアへ)
稲垣 「一般の世界で様々な分野、諸科学を統一していく学問は科学ではなくて哲学と呼ばれている。」これはある意味では常識的な哲学の定義だと思います。新言海という辞書に、すべての知識を統一し、云々と似たような表現が出てきました。ただ問題は知識という言葉だろうと思います。私の定義ではあえて知識でなく緒科学と言ったのですが、もともとのフィロソフィーは「知識を愛する」ということですから、愛智という意味が出てくるんですけれども、ギリシャ語のソフィアは知識とか知恵という意味ですが、それをラテン語に訳しますと、スキエンティア(scientia)という言葉になるんですね。ソフィアはスキエンティアという言葉になってきます。そして中世のヨーロッパではソフィアの訳、つまり知識とか知恵という意味でscientiaが使われていたんですね。スキエンティア(scientia)これは英語で言えばサイエンス。サイエンスの語源はスキエンティア、知識ということがまずスタートのところにあって、時代的にそれが変化する。スキエンティアというのが中世ヨーロッパ全体を通して知識一般、という意味で使われていたんですけれども、いつの時代からか、これがいわゆる英語でサイエンス、科学というものに転換してくるんです。
(スキエンティアからサイエンス)
それではいつそれが転換するかということです。19世紀になって初めて英語のサイエンスというのがスキエンティアからむしろ今でいう自然科学をさすようになっている。知識一般というものから自然科学そのものをさすようになったということが、哲学の歴史、特に科学の歴史の中で言われている。それは非常に面白い。というのは、私は実は科学の誕生は19世紀じゃなくて17世紀だと思っていますから、そして多くの科学者もそう言っていますから、この解釈はすごく面白い。しかし更にちょっと考えてみるとわかるのですが、17世紀は自然科学の誕生の時代です。例えばご存知のように、ガリレオ・ガリレイが宗教裁判にかけられたとか、真理のために戦って教会と闘争を繰り広げて、宗教的な蒙昧を打ち破って近代的な理性が勝利した、これはガリレオの功績だ、とか。そういう発想というのが今まで日本の知識人の中に比較的多かった。ですから自然科学、真理としての自然科学の誕生は17世紀だという風な、そういうイメージが強い。ある意味でこれは正しいんですけれど、実はガリレオもそうですし、その次の世代に続くニュートンの時代になると、17世紀の半ばで、ニュートンの時代になると、ある意味でガリレオが問題提起した新しいサイエンスというのは数学的な言語を使う、ということが本格化します。そして数学を発明した、そして作り上げたのがいわゆるニュートンの力学ですね。
(自然哲学者としてのニュートン)
それにもかかわらずニュートン大先生ですら自分を科学者として、いわゆるサイエンティストとしてはアイデンティファイしていなかったんです。彼は自分のことを自然哲学者、ナチュラル・フィロソファーという風にアイデンティファイしていたんですね。ということは、17世紀に確かに、(ニュートンは18世紀まで生きていましたけれども)いわゆる我々がよく知っている近代科学が誕生するんですが、まだ科学というふうな言葉すら使われていなかった。自然哲学が数学的な原理によって表現される、そういう大転換だったわけですね。これには今言ったガリレオと同じ世代のケプラー、哲学的にはデカルト、ベーコン、そういう人々が関わって最終的にはニュートンがそれを整理していく、そういうことをやるわけです。ですからこれはニュートン自身の著作を題名を見ればわかるんですけれど、(中央公論社の「世界の名著」参照)「自然哲学の数学的原理」という題ですね。プリンピキアといわれている細部の原理、自然哲学の数学的形態。これはニュートンの主張です。その中にかの有名な万有引力の法則が登場するんですね。
(メカニカルなニュートン力学の登場)
なにしろニュートンは自然哲学者だと自分をアイデンティファイしていた。そのうち18世紀、19世紀にニュートン的なメカニカルな世界観の成立ですね。(機械的と訳していいか力学的と訳していいか分からないのですが、メカニカルという言葉は、物理学では力学とも翻訳されます。)ニュートン力学はその典型です。それを機械的ないし力学的な考え方、その根本には「力」という概念を自然界に持ち込んでいき、仮定していろんなものを力の関係で説明している。というふうなものの考え方、これは結構機械的なわけですよね。機械をイメージすると分かるんですけれど、いろんな歯車がついてシャフトがついてガチャガチャと、ここから回転の力がピストン運動に転換される、そういうメカニズムですよね。そういうふうにして自然全体がメカニカル、機械的に理解される。これはニュートン力学の大成功、18世紀、19世紀はその全盛期です。
19世紀はそれが更に生物みたいなものに適用されていく。本来オーガニズムは有機的と訳すべきですけれども、オーガニズムいうのはそれ自身が生物的な世界がメカニカルになってイメージされる。その延長上にダーウィンみたいな思想が出てくる。というふうなことがありまして、ニュートンの、世界観に与えた影響はものすごく甚大なものです。ある意味ではスキエンティアのパラダイムの典型になったのが力学ですから今我々はスキエンティアというのをサイエンスと訳していますが、その中心はやっぱりニュートン力学、こういう風に考えがちなんですね。しかし実際にニュートン的なイメージで学問を本格的に大学で展開するようになったのは、19世紀に大学の学部に自然科学、理学部みたいなのが置かれるようになってからです。
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