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著者プロフィール


哲学者と経営者の対話 3  

稲垣 久和氏


(テオリア 観照の世界)
─  先生は、哲学はテオリアという観照であると言われました。ヨーロッパにはこの観照の伝統というのが相当あると思うんですね。ヨーロッパには神秘主義と言われる流れがあって、神秘主義はかなり観照という言葉を重要視していると思いますが。

稲垣 そうですね。それはまた自己とか自我というものを深く見つめるとか、そういう意味での倫理学も西洋の系譜の中にはあるんですけれど。 例えば観照というこの字は広辞苑に出ていますけれど、仏教の用語が先に出てきます。「知恵をもって事物の理想を捕らえること。仏教用語」だと。それから二番目「対象を主観を交えて冷静に見つめること」これが多分ギリシャ的な意味に近いですね。テオリア、美学ではコンテンプレイションという英語の翻訳。イギリス、フランスではこういう意味で使われている。美的対象の受容における客観認識の側面、つまり自然と芸術の観照ですね。こんなような説明です。私達は二番目でしょうね。対象を主観を交えて冷静に見つめる。何をみつめるかというと永遠の世界であるイデアの世界を見つめるというのがもともとのギリシャの哲学、テオリアです。そして、イデアの世界というのは凡人が近づけない、近づけるのは修練を積んだ哲学者だけ。そういう考え方がプラトンにある、一種のエリート主義ですね。

(西洋のキリスト教の問題)
─ イデアについてはさっき先生が永遠の真実とおっしゃいましたね。そういうのは抽象的な概念ではないでしょうか。

稲垣 極めて抽象的です。

─ 観照という行為を通して永遠の真実を通して見る、というのは何か問題がありそうですね。

稲垣 そうです。そこはある意味で大問題が起こっていて、西洋のキリスト教はですね、しばしばこれを神の国や神と同一視してしまうんですね。ここは西洋のキリスト教の問題がある。聖書はそう言っていない。理論的にでっち上げた永遠の理想がある、というふうな発想は、果たして聖書的な意味で言うところの神のリアリティーでしょうか?ということです。

(日本の経営哲学について)
稲垣 松下幸之助さんが水道哲学とか、近江商人の三方良し。ある意味で経営哲学でしょうか。こういうものを出してくる背景は、さっき私が言った哲学の経緯のだいたい二番目で、それはある意味ですごく大事だと私自身は思って勉強したいんですよ。だからちょっとこう水道哲学とか三方良しというのは何を意味しているのかなあ、と逆に伺いたい。

鈴木  私の祖先が近江商人だからということではないのですが、三方良しは自分、お客さん、取引相手、すべてが満足することがいい経営、いい商売の仕方だということだと思いますね。私の祖先がそれをやっていたかどうかは知りませんが、結局すべて商売にかかわる人々を満足させるというか、相手の立場に立って。水道哲学についても、水のように安く広く相手に商品なりサービスなりを提供するということだと思いますね。

─  松下さんも水道哲学をもっていた。松下さんの会社に勤めていたある方が、おっしゃったんですけれども、松下電器は、水道の蛇口をひねったらどんどん水が出てくるように、電化製品を安く普及してより良い生活をしてもらおう、というのが松下さんの考えだったんですね。より潤沢に、より安くということが会社の運営の基本になっているわけです。この哲学というのは恐らくらくそういうものを作る担い手になる人達を教育する場合、こういう考え方でモノを作るんだよ、と。でそこに松下さんの経営哲学がある。哲学の場合、人作りに関連して哲学を使いますね。これは日本の場合ですと知恵というか処世術とか、そういうものが入ってくると思いますね。ただそういう水道哲学があったが故に松下電器はあれだけ大きな世界的な会社になりましたし。

稲垣 それを社員はもう皆勉強しているんですか。水道哲学という名前で?
─ しています。
鈴木 松下電器のホームページにも載っています、水道哲学という言葉は。

(三者関係と二者関係)
稲垣  なるほど。私が面白いなと思いますのは、いきなり三者関係が出てくるというのは何とも興味深い。自分とお客さんと仕入相手という。自分とお客さんだと、ある意味ではデカルト的な主体客体二元論ではないか。現代色んな問題が行き詰まっているのはそういうデカルト的な主客二分、二元論だと。まさにいきなり「三方良し」がどんと出てくるところがポストモダン的ですよね。近代を乗り越えている。仕入相手というか、中間の商人の役割、これは何かというのは大変興味がありますね。お客さんと私の間に入るというイメージなのか、それとも単に仕入れてきてそれを逆に更にマージンをつけて売るという、もっと何か面白い哲学的な役割がこの中間役の商人にありそうですね。

阿部  商売をしているとよく分かりますが、普通、売上−コスト=利益、 売上を伸ばしてコストを下げればよい。それでできるだけ仕入を叩く、売上を伸ばす、高く売るとか、観念ではそうなりますが、実際の商売となると違う。メーカーで原料を仕入れるには一箇所から仕入れたのではだめで、長く商売をやろうとしたらその仕入先を大切にしなければだめなんですよね。自分たちが存続していくためには。ですから仕入先にダメージを与えると自分もだめになるということがある。一番よく分かったのは請求書が来る時です。ある時は仕入先を叩いていた業者には原料が入らなかった。だから商売というのは三方良しで皆を大切にしていかないと。

(西洋は二元論の世界)
稲垣 そうですね。もちろん聞けば極めてまっとうなことで、だれでもが分かるクリアーな哲学だと思いますけれど、何とそういうところに到達するのに西洋はものすごい時間がかかっているんですよね。二元論ですから17世紀から20世紀前半まで。ようやく20世紀後半になって人々はまともにこれは何かおかしいと、主体、客体の二元論は。

─ 私が前いたところは商社だったんですけれども、上の方が言われたのは「仕入先を叩け」と。いかに安く買うか、そういうことをずっと言われましたね。ですから三方の中でもお客さんは大切にするわけです。仕入れるところに対しては本能的に叩こうとします。大企業はよく下請けをいじめるというのがあるわけですよ。近江商人の最初の頃の人というのは、やっぱりそうじゃないんだと、そういう下請けを叩こうとするところに歯止めをかける。その下請けと共存共栄を図ることによってどういうことがメリットとして出てくるかということを、多分いろんな形で実際のことを通して知ったのだと思いますね。それだけ過酷な場所にあって、そうしないことには物は仕入れられなかったと。そういうポジションに近江の国があったのかもしれませんね。

稲垣 近江の実際の場合の仕入先って何を想定して、どういう商売をやっていますか。

鈴木 近江商人の会社でもいろいろありますけれども、うちの会社で言えば、今は違うんですけれど、元々はお酒の卸業をやっていましたので、仕入先はメーカーで、うちが卸でお客さんが小売という形だったと思います。ご多分に漏れずメーカーを叩いて、というのは今もあるんですけれど、小売に関しては値崩れが起こって卸の力がかなり弱くなっていますので、余り叩けないというのがありました。三方良しで商売をするためには場合によっては非常に難しいことがあって、例えばお客さんを満足させるということで、お客さんを大切にしていく上で向こうの信用度を当然気にしなければいけない訳で、例えばお客さんが「今日は負けておいて」「支払いを延ばして下さい」とか、言ってきて、お客さんを満足させるために少し位支払いを延ばしてあげようかとした途端にそこが潰れた。そういうことも何回かありました。だから三方良しを完璧にやるとなると非常に大変だな、と思いますけれど。

─ 一種の緊張感の中でやるということがあるんでしょうね。皆よかったよかったというのではなくて。

稲垣 ちょっと待ってください。三方の解釈がどうも複数あるようなんですね。いわゆる素朴なイメージで素人として経済の流れとか考えると、まずモノを作って、メーカーですか、それを商品にする。そしてお客さんに行く。で、メーカーとお客さんの間にお店、商人が入る。そういうイメージですけれど、それと三方と言った時に何か役割があるところが変わっていますよね。近江商人の場合、メーカーが第三、私達のイメージではメーカーが第一でお客さんが第二で、これだと二元論。その間に商人が入る、これは三元論で面白いなと、それは役割です。交替してもいいわけです。とにかく三者がいないとだめだと、そういうイメージですか、その三方というのは?

─ 商人という性格が強いんじゃないですか。間に入って仕入れてそして卸として売っていくという。
鈴木  ただ、商人じゃなくてもメーカーにも仕入先があってその立場立場で変わる。小売業にも卸が第三者で、お客さん、町を歩いているお客さんも。三方です。

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