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著者プロフィール


哲学者と経営者の対話 9  

稲垣 久和氏

■西洋哲学の二元論と三者関係

− 前回までは科学とは、西洋の哲学の問題、二元論について討議しました。整理しますと二元論と言った時に、背後に神がいて、主体と客体という構図をとります。

●三者関係

それに対して稲垣先生から三者関係というものを、主体と客体の間に神を復活させるという考え方ではなくて、意味局面を主体と客体の中に入れたらどうだろう、というご提案だったと思います。例えば白鳥を見る、白鳥についての意味局面をレンズを入れることによって三者関係が成り立つのではないか。一方で三方良しということで、近江商人の経営の哲学から学ぶことがあるだろうということで、これも三者の関係ですね。三者関係というのがフラクタル(複雑系)の構造を持っていたりしているわけですけれども、三者の関係をもうちょっと突き詰めてみると、日本の場合は主体と客体、私とあなたという関係が必ずしもしっかりしていないんではないか、ということでちょっと触れておきたいと思います。これは森有正先生が著書で「経験」ということの中でずっと語っていらっしゃるんですけれども、私とあなたという関係ではなくて、結局あなたとあなたの関係になってしまう。あなたとあなたで二者関係だと。本当の意味で二者関係というのはまだ確立されていないのではないだろうかと。ということは、私とあなたという関係ではなく、あなたとあなただから、そこに個人とか他者というのは存在していない。そこら辺が問題だろうということです。それから日本人は主語がない、これは日本の特徴で中国と韓国はそうではない。そこで東洋哲学と言った場合に、中国、韓国を抜きにして東洋哲学というと問題が出てきます。

●理性についての考え方

それから哲学となってくると、やっぱり我々は理性ということばのわかりにくさを認識します。理性ということについてもちょっと検討してみた方がいいんじゃないかと思います。私が読んだ講談社の「現代哲学の岐路」という本の中で、ヨーロッパ人が考えている理性と、我々日本人が考えている理性と違う、ということを木田 元先生は指摘しています。「理性というのは、認識する側の単なる働きを言うだけでなく、同時に認識される側の存在の秩序でもあるわけなんで、むしろそうした存在の秩序をそのまま把握しうる能力であるからこそ、理性は他の認識能力とは比べものにならないある絶対的価値を持つとされる」と説明しています。

それはさておき、哲学と経営の現場(実践的)を今回の対談で近付ける、橋をかける試みをすることができたらいいのではないかな、と思います。

稲垣 神を入れた三元論、これが二元論になっていくプロセスというのは、これは近代思想史のある意味で非常によく知られたシフトだと思いますけれど、それに対してまた三元論の復活だということではないです。そうではなく、主体と客体の間に意味局面が入るということなんですが、ちょっと気になったのは神を復活するのではなくて、といういい方をなさった。それでですね、

一つは中世キリスト教モデルに支配されているヨーロッパで、文化そのものは世俗化が進んでいます。そしてヨーロッパ世界にもアフリカとかアジア、南米とかいう全く異質の世界が混入してきている。

そのような多元化が不可避な時代に、私達はキリスト者として神を信じる者として中世的なヨーロッパをモデルに戻るだけでいいのか、そういう問題があると思うんです。戻る事はもちろんできないわけです。

■多元的状況の中での福音派のモデル

●多元的な日本の状況

一つは我々が日本人キリスト者であるという問題です。ですからアジアというコンテンツと文脈の中でキリスト者になっていく。アジア的な様々な思想、これは中世ヨーロッパでは考えられないような事態、その中に取り囲まれていますよね。ですから仏教も儒教も道教も神道も皆そうだと思いますけれど、ある意味で多元的な状況というのは最初から「リアルにある」というところから出発しないと、単に中世ヨーロッパをモデルに戻るということでは、これはfundamentalism(根本主義)になってしまうんですね。これは自分で考える力量のないキリスト教です。このような状況はもちろんヨーロッパにもありました。19世紀末のキリスト教批判者のニーチェをして、「キリスト教は大衆のためのプラトン主義である」と言わしめた根拠なのです。いかに考える力量のないキリスト教が危険なものか、日本のキリスト者はもっと知るべきです。現在のアメリカのキリスト教原理主義の問題もここにあります(稲垣久和著『宗教と公共哲学』(東京大学出版)会参照)。

●初代教会―多元的社会の中のモデル

そこに今の福音派の陥っている状況を危惧するんですね。多元的な社会の中に生かされているという意味はもともと中世ヨーロッパモデルよりもっと戻らなければいけないんです。ローマ、キリスト教の発生の頃です。これはもう完全に多元的ですから、否も応も無いわけです。ギリシャ、ローマの神々がいてアジア的な宗教があって、そういうcontext(背景)があったり、様々な中でキリスト教が入ってきたわけです。これは否応なくone of them ですよね。その中でキリスト教が徐々に浸透して行った。そのダイナミズムは何なのだろうと思うのです。多分そのダイナミズムがないと日本みたいなところでは宣教は成功しない。ですから中世ヨーロッパをかなり真似ているアメリカをそのまま持ってきてもだめだと思うんです。

●中世に近いアメリカモデルー異質の排除

アメリカは実は中世ヨーロッパに近い、というのはどういうことかというと、成り立ち、歴史を見ますと、現地人は既にいたわけですが、白人が渡って行ってヨーロッパのしがらみが無いところで国家を作っていきました。結構キリスト教が最初から盛んで、理神論もありましたけれど、広い意味でのキリスト教的なものがあった。あったというのは、実は色々な見方があるんですが、現地のanimism(自然界に霊魂が宿るという信仰)的な宗教はたくさんありました、インディアンがいましたから。彼らを排除して白人社会を作っていった。そういう社会でしたから、そういう意味では理想的な白人の契約社会ができたみたいな、そういうイメージを彼らは持ってしまった。しかし本当はそうではなかった。異質な現地人たちを全部排除していったという、それがまた60年代の公民権運動civil right movement で問われましたね。最近の様々な多元的な問題の噴出ですね。ただ意識としてはevangelical(福音派)というのはまだまだ中世モデル的ですね。それが日本に入ってきた。ところが日本は最初からそうじゃない、むしろ初代教会モデルに戻らなければいけない、そういう状況です。

●世界の意味づけから始まる異なる宗教との対話

そういう時になぜ意味局面かというと、神が世界を創造した、そして私達も被造物である、そして私たちはその被造物として神に与えられた世界を意味付けていくことができるという、そういうキリスト教の世界観は、これは例えば仏教徒とか、そうではない人達というレベルで話をしてみても、通じるんですね。ではどういう意味で通じるかというと、存在そのものに意味があるということで通じるんですね。彼らは彼らなりに例えば仏の御徳で生きているというそういう仏教徒はやっぱりそれなりに存在の意味というのを見出していますから、それが縁であるとか縁起の法とかそういうものであるかもしれませんけれど。いずれにしても私達のこの世界に意味を見出している訳ではないですか。

●世界の意味の二重性

ですから私達の見方は、創造者なる神の被造物としての世界として意味がある、ということなんですけれども、同時にこれは他のそうではない人々にとっては、その世界というのはどういうふうに意味付けられているんだろう。ということで私は一冊の本を書きましたけれども、それなりに例えば華厳経の教えとか法華経の教えとか、そういうものの中から彼らなりの東洋的世界観を持っていますね。その中で意味付けているんですね。いずれにしても大事なのは、この世界の意味があるということを我々自身が受け取る、了解できる被造物である。というところで私達は今この対話の哲学をキリスト教の側から出していくことができる。私が理解している限り、結構色んな人がその対話に乗ってきてくれる、ということは経験的にですけれど、私はその有効性を確かめています。ですから三元論に単純に戻らないということではなくて、キリスト者としての世界観を更に異教的なものをも意味付けていく程に大きな神の恩恵の中に生かされている、という意味で共通恩恵common grace というわけですね。その中でものを考える。狭義のキリスト教会は特別恩恵special grace だけの世界ですね。

―そうしますと意味局面のところは、全体を神が支配されているということでしょうか。

●創発的解釈の世界へ

稲垣そうです。意味は私自身がこの世界に対して意味を読み取るという極めて人間中心的なレベルで話をした時に色んな人達と確実に通じるわけです。しかし同時に私達にとってはこの意味というのは二重の意味がありまして、一つは私達がそこから受け取る意味であり、私達の意識がそこに付与する意味です。もう一つはそこの被造物が存在するという事が神によって意味付けられているという、創造の秩序があるわけです。それはもうキリスト教の変わらない創造creation の教理として、初代教会以来我々は伝統的に持ってきた。そういう意味での二重の世界があるというモデルです。

それで私が出した本で、「超越論的解釈学」、「創発的解釈」と呼んでいるんですけれども、創発的という言葉と解釈学といった場合に二重の意味がそれぞれに込められている。それはまた後で機会があったらお話したいと思います。

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