Back No <1> <2> <3> <4> <5> <6> <7> <8> <9> <10> <11> <12> <13> <14>
<15> <16> <17> <18> <19> <20>



著者プロフィール


哲学者と経営者の対話 10  

稲垣 久和氏

聖書と経営哲学

(他者感覚と複数感覚)

稲垣 それともう一つ、言語の問題で付け加えたいんですけれども、韓国語で「私」とか「あなた」という言葉をご存知ですか?韓国語で「私」と「我々」とは言葉が違うんです。「我々」は「ウリ」と言うんです。日本語だと我と我を重ねるじゃないですか。韓国語は違う。それを韓国の学者と大議論したことがあるんです。中国や韓国と、日本は違う。一つは他者感覚が彼らにはすごくあるんです。「我々」と重ねてしまうと、私とあなたが同じじゃないですか。極めて日本人は同質感覚が強くて、「俺とおまえは同じだよ」とそういう意識が強くて、でも中国人や韓国人は日本人よりもずっと主体、我が強い。「俺とお前は違うよ」というところで強調されていく。

―中国語の場合は「私達」のことを「ウォメン」と言いますね。

稲垣 ですから中国語や韓国語の方がヨーロッパの言葉に近いですね。日本語だけです、我、我と重ねるのは。英語でもIとweで違う言葉すね。その辺は日本人の同質性、何でも同じにしないと気が済まないというのは言葉の中にも現れています。ですから私は単数だけで考えているとちょっと分からない。むしろ最近は我と汝という、これは単数だなと思います。我々と汝らというのを考えなければいけない。ブーバーはそれを考えてないんです。そこでブーバーを乗り越えないと今の私達に必要な哲学が得られないです。
複数が必要だと。なぜ複数が必要かというと、公共性の議論をする時の前提が、異質な他者と共存するということだからです。
(理性の中世的モデル)
―これは 木田 元 先生がおっしゃったことなんですけれども、「理性という言葉は我々日本人にはどうも飲みこみにくいところがあるようです。僕も哲学の勉強を始めてからしばらくの間、ことに近代の哲学者の本の中で、この理性という言葉に出会う度に妙な違和感を感じて仕方がありませんでした。・・・つまり理性というのは認識する側の単なる働きを言うだけではなく、同時に認識される側の存在の秩序でもあるわけなので、むしろ存在の秩序をそのまま把握し得る能力であるからこそ、理性は多分認識能力とは比べ物にならない、ある絶対的な価値を持つとされるわけなんです。西洋人が理性と言う時には、はっきりとした前提があるんですね。こうした観念は我々日本人にはないので、なかなかそれがうまく飲みこめませんでした。」ということですね。

稲垣 存在の秩序ということを言っているのですか? まあそれはキリスト教の創造の教理ということを思い浮かべれば、創世記でもそうですけれど、第一日目はこうだ、第二日目はこうだ、そこにある無生物から生物、そして人間、ひとつの秩序というのはできますね。トマスになると無生物から生物、人間、天使、神まで、そういう意味でのキリスト教の理解、創造の秩序の理解という意味で言っているのかなと思います。

―もう少し読みますと、「大いなる理性としての神が世界を創造したのだから、世界は神の理性を分有している。もともと神の摂理によって貫かれているのだから、合理的なものだというわけです。そして人間の理性も世界創造の最期の段階で、神が自分の理性に似せて言わばそのミニチュアとして造ったものなので、人間の知恵はあるけれど、むしろ神の理性の出張所のようなものだから、人間の理性と世界の理性的法則との間には、ある対応関係があると考えられていた。つまり世界の理性的な存在構造の設計図が神の理性で、我々人間の理性はその設計図の写しみたいなものなのだから、世界の理性的構造と人間の理性的認識能力との間には、ちゃんと対応関係が成り立つ。」

稲垣 だからまさにトマスじゃないですか。分有なんていう言葉自体がトマス的な言葉で、今でもカトリックのネオ・トミズム    ニズムの学者は分有という言葉を分けて使いますね。私は嫌いですけれど。トマス主義者ではないですから。でも基本的にはアリストテレスから中世までは、そういう考えがまさに中世モデルになるんですけれど。宗教改革以降、特にカルヴァンカルバンとそしてオランダのキリスト教哲学ではトマス主義とは構想が異なって来て、むしろこういう新しいタイプの理性論じゃなくて意味論ですね。それにシフトして行くんですけれど、細かいことはともかく、中世的なモデルは今おっしゃったようなものですね。そういう意味で日本人が使う理性と違うといわれたのですか?

―そうですね。
(日本人の理性のとらえ方)
稲垣 日本人は理性というのをどういう風に使っているでしょうか。漢語の理を持ってきたんですね。漢語の理というのは儒教の気に対立する、理(ことわり)です。中国人も日本人よりずっと理知的ですから、そういう意味での、秩序とまでは行かないけれど合理的な性格はあるだろうと思うんですけれども、日本に持ってきてしまうと、元々の儒教的な中国思想的なものでなく、むしろ西洋のreasonを知識人達によってそのまま取って、西洋化されてしまっているのではないでしょうか。

―東洋的な自然のことわり(理)については中村元先生が著書で、かなり全体を直観的に捉えていますね。

稲垣 それはよく言われることですね。理性だったらそれに対する感性というのですか。そういう言葉をむしろ日本人は好む。西洋人は合理的、理性的だ、日本人は感性的だ、そういう捕らえ方が日本人は好きです。本当にそうかどうかは別として。
それは芸術とか景色とか、感性に優れていて、逆にそれが西洋に輸出されてたりしている。

top

Copyright (C) 2004 e-grape Co.LTD. All Rights Reserved.