宮崎県児湯郡出身の石井十次(1865-1914)は、貧しさや地震災害などで路頭に迷った約3.000名の孤児たちの父親となり、子供たちの自立のために物心ともに支援し続けた。それは、8歳になる一人の男の子を預かることから始まった。今日のような福祉制度のない時代、また財力のなかった十次にとって、たとえ数人の孤児たちを預かることでも、経済的には容易なことではなかった。
預かった子供たちが40名ほどになったころのある日、十次は鐘をならして、子供たち全員を集めた。
「みなさんに集まってもらったのは、わたしがみなさんにあやまらねばならないことができたからです。それは、お米や麦が少なくなってしまい、今晩はおかゆにしなければならなくなって、ほんとうにすまないが、それでがまんして下さい。このとおりです。」しかし、十次は話を続け「『神様はきっと与えてくださる』という信仰があれば、神様は与えて下さるにちがいありません。いまおかゆのしたくができていますから、それを食べたら、わたしといっしょに、心を合わせて、お祈りしてください。」
その時だった。人づてに「必ずお恵みがあります。手を挙げてまっていなさい。」と十次は言われ、食事か終わったころ、子供たちといっしょに、熱心に祈った。祈り会が終わったときだった。
「十次院長、お祈り中に、アメリカの婦人が見えて、アメリカの少年会から送ってきたといって31円の寄付金を持ってきて下さいました。」と知らせが届いた。(米10キロが50銭前後の時代でした)
十次は、神様に感謝の祈りをささげた。
明治38年晩秋、東北の岩手、宮城、福島の三県で大凶作が起こった。食べるものがないので売られていく子ども、捨てられる子が続出し、人々の心を痛めた。十次は翌年1月、三県に出かけ状況を目の当たりに知り心を痛めた。「食べるものもなく、寒さにふるえている。この子たちを温かく迎えねば。」そして2月、救済事務所を開設し、職員を残し、受け入れ準備のために岡山に帰った。 (続く)
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