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〜信仰による労働の変革〜

アガペコミュニティーチャーチ 門谷 ユ一


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目次


W.信仰による労働の変革

1.信仰と労働の関係の変遷        
  生松氏[26]は、ヴェーバーによる「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」[12]について解説を行っている。 ここで信仰は労働に良き影響を与えうるということ、又そのことが実際に起こったということを確認するために、生松氏の解説の一部を抜粋・要約して以下に示す。
  「ヴェーバーは、カルヴィニズムをはじめとするプロテスタンティズム諸派の禁欲的生活倫理と、近代ヨーロッパにおける資本主義の発展の精神的推進力となった「資本主義の精神」との間にある内面的連関を問題にした。ヴェーバーが近代ヨーロッパに独自の「資本主義」としているのは、あくまで自由な、賃金労働者の労働にもとづく合理的、経営的な産業組織、さらには営利経済のことである。それゆえ、「資本主義の精神」とヴェーバーが名づけるものは、それは、典型的にはベンジャミン・フランクリンの「時は貨幣であることを忘れてはいけない、云々」以下、勤勉、労働、質素、正直、信用といった徳目についての有名な道徳訓に示されている「精神」あるいは「倫理」のことである。この道徳訓にはっきりと示されているのは、「信用のできる正直な人という理想」であり、とりわけ、「自分の資本を増加させることを自己目的と考えることが各人の義務だという思想」である。それは一つの「倫理的態度(エートス)」の表明であり、このようなエートスこそヴェーバーが「資本主義の精神」と呼ぶものなのである。
  近代ヨーロッパの資本主義成立以前には、およそ営利活動とか利潤追求とかは、倫理には無関係なこと、いやむしろ倫理には反する、不道徳なことと考えられてきた。ところが、近代に至って、そういう経済上の伝統主義は克服され、経済的営為が精神的ないし倫理的なものと見なされるようになった。その転換において、決定的な一要因としての役割を果したのが、宗教改革以後における「プロテスタンティズムの倫理」であった。つまり、近代の「資本主義の精神」の形成に不可欠な倫理的要素を与えたのが「プロテスタンティズムの倫理」であった、とヴェーバーはとらえた。しかし、これはなにも、富中心的な「資本主義の精神」と、きわめて厳格な禁欲を教える「プロテスタンティズムの倫理」の同一性を説いているのではない。プロテスタンティズムは「資本主義の精神」の誕生時に、いわば産婆役として「その揺籃を見守」り、倫理的態度の注入に貢献したのであるが、完成した姿の「資本主義の精神」の中にはもはやプロテスタンティズムの信仰は「亡霊」としてしか残ってはいないのである。
  では、どのようにして「プロテスタンティズムの倫理」は、「資本主義の精神」の形成を促がすことになったのか。ヴェーバーはこの問題に、プロテスタンティズムの信仰に特色的なものとしてあらわれてくる「職業召命観」の解明によって迫ってゆく。ドイツ語の「ベルーフBeruf」、英語の「コーリングCalling」には「神の召し」という意味と、世俗的な「職業」という意味とが含まれているが、こういう「世俗的な職業こそ神のお召しにもとづくわれわれの使命」なのだという考え方は、宗教改革で出てくるプロテスタンティズムに特有な倫理的観念であった。
  ルターによって示されたこの「職業召命観」は、しかしルターにおいては、必ずしも十分に展開・徹底されなかった。すべてはただ「神の栄光のために」という旗じるしのもとに、積極的に職業労働の組織化・合理化を推進したカルヴァン派の人びとによって、その不徹底は克服される。その際、「恩寵(おんちょう)による撰びの教説」という恐るべき教説が、きわめて重大な役割を果した。というのは、この教説によれば、人間の救いは神の絶対的に自由な決定により永遠の昔に定められているとされる。だから、この教えを信じる者は、自分が救いに定められた者、恩寵によって聖別された者であることを、現世における労働、隣人愛の日々の実践によって証(あか)し立てねばならない。カルヴァン派の人びとにとっては、かくして「職業労働」は、まさに「神の栄光を増すための働き」、「悪魔の誘惑に対する戦い」という熾烈(しれつ)な意味をもつことになった。日常生活は、隅々まで組織的、徹底的に合理化され、快楽を一切放棄して職業労働にいそしむという厳しい生活態度が生み出される。かつて修道院にあった「祈り、かつ働け」という禁欲的生活態度は、そのまま「世俗内」に移され、「世俗内的禁欲」として「職業労働」が聖化されるにいたったのである。
  ところで、こうした厳格な禁欲的職業労働の倫理を説くカルヴィニズム、およびその系統をひくプロテスタンティズムの諸派が伝道され、根をおろしていったのは、地主とか富裕な大商人階層ではなく、当時のいわゆる中産階級であった。貧しくはあっても、自己の生産手段を所有する独立小生産者、つまり農村の自作農とか、都市の独立職人などによって代表される中産階級である。カルヴィニズムの職業倫理は、これらの人びとの生活倫理として深く浸透してゆく。ヴェーバーが問題としているのは、ルターやカルヴァンの教義そのものではなく、まさしく、それの実際生活への影響である。だから、それは「エートス」の問題である。中産階級におけるこの職業労働の組織化・合理化に集約される「エートス」には、当時の大商人階層の無倫理的な、「賤民(パーリア)」資本主義的な「貨幣と財との追求」に対する嫌悪の念、敵対観念がはっきりと認められる。
  しかし、禁欲的・組織的に職業労働に従事すれば、当然の結果として富は増大してゆく。ところが、この富の上に休息し、享受することは許されない。となれば、富は節約され、また仕事に投資されていっそう大きな富をもたらす。しかも、職業義務の遂行は神の命令である。かくして「正直な労働から得られた利得は神の賜物(たまもの)である」と正当化され、利潤獲得の機会は神の摂理であると意味づけられるにいたる。ヴェーバーは言う-「プロテスタンティズムの世俗内禁欲は、無頓着な所有の享楽に全力をあげて反対し、消費、ことに奢侈的(しゃしてき)な消費を圧殺した。その反面、この禁欲は、心理的効果として財の獲得を伝統主義的倫理の障害から解き放ち、利潤の追求を合法化するのみでなく、これを直接神の意志にそうものと考えることによって、その桎梏(しっこく)を破砕してしまった。……肉の欲、外物への執着との闘争は決して合理的営利との闘争ではなく、所有の非合理的使用に対する闘争なのであった」。このような消費の圧殺と営利の解放から必然的に帰結してくるのは、「禁欲的節約強制による資本形成」にほかならない。利得の消費的使用を阻止すれば、それの投下資本としての生産的利用を促進せずにはいないからである。ここにおいて、資本の原始的蓄積が行なわれることになる。
  しかし、利得は誘惑である。「富が増すとともに高慢、激情、そしてあらゆる形での現世への愛着も増してゆく」。かくしてその職業倫理の中に貪欲(どんよく)が侵入してゆくことになる。はじめは禁欲的プロテスタンティズムと未分離のまま結びついていた「資本主義の精神」は、しだいにその宗教的外衣をぬぎ捨てる。職業倫理から信仰の根が失われ、神の姿が稀薄となり、富そのものが前面に大きくあらわれてくる。その職業倫理は、神の栄光のためにではなく、多くの貨幣利得のための一切の営みを合理化し、それへの全力の傾注という現世的倫理に変貌してゆくのである。この「功利的現世主義」の出現とともに、かつて信仰に支えられていた職業倫理は形骸化し、その形骸が啓蒙主義的人間中心主義と結びついて、そこにフランクリンやアダム・スミスの描く「経済人」の理念、倫理と経済の調和の原理が普及してゆくことになる。宗教的核心をすでに喪失した独自の市民的な職業の「エートス」である。ウェーバーがこの論文の冒頭でフランクリンに代表させた「資本主義の精神」とは、したがって禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理からその宗教的基礎づけの脱落したものである。それゆえに、「近代資本主義の精神の、いやそれのみならず近代文化の本質的構成要素の一つたる職業観念の上に立った合理的生活態度はキリスト教的禁欲の精神から生まれ出たものだ」と言うことができるであろう」[26]。
又東方氏[27]は、次のように労働観の変化について述べている。
  「産業社会以前の時代では、このプロテスタンティズムの職業倫理は、個人主義であるより、町や小都市での互いに顔見知りの間柄で機能し、お互いに穀物をつくっているのが誰か、また誰に家の建築を頼んだらよいか知っているような「共同体の倫理」として有効であった。このような比較的小さな共同体では、神に対する責任や隣人に対する説明能力も職業生活において増加させることができた。従って、お互いの配慮や職人気質も維持されていたと言える。
  ところが、近代社会では、いわゆる産業革命が起こり、職業のコンセプトに影響を与え、内面的な動機づけにも変化が生じてきた。神を賛美し隣人を愛するというルターやカルヴァンの職業観は、啓蒙主義の功利主義的職業観に変わってしまった。それが「産業精神」であった。ベンジャミン・フランクリンは、勤勉と自己訓練を勧めたが、それは、マックス・ヴェーバーが指摘するように、功利主義的である。これが競争社会において自由企業の活性化になり、もはやルターやカルヴァンの信仰に基づくグッド・ワーク観は、経済的地位に関心を向けるように変えられたのである。さらに変化をもたらしたのは、産業革命によって機械が人間の手にかわって生産するようになったからである。これはまさに、職業の外的変化をもたらした。機械化は、私たち人間を単純作業から解放し、洗濯を楽にし、道路工事や舗装において重労働の重荷から解放した。また、機械化は、生産性をあげ、大量生産を可能にし、能率を上げ、私たち人間の健康を支えた。しかし、これは、私たちの目を、働く生活による外的成果に向けるようにしてきた。機械化は、様々な疎外の形態を生みだすのである。例えば、生産品と労働者の分離である。今や人々は、人格や技能の成長よりも、生産物に目を向けるようになったのである。
  このような人間性に対して否定的な力が働いているのに対して、あらためてグッド・ワークを回復するためには、どうしたらよいのだろうか。あるいは、そもそも、産業革命と組織改革の後で、キリスト教倫理は、意味をもっているのだろうか。また、産業革命以前の生活様式にもどるようなロマンティックな仕方で職業倫理を回復したり、機械文明を捨てて農耕社会に逃避しても、産業社会全体にはなんの解決にもならない。むしろ、私たちは、産業技術社会の中で職業の世界を人間化する努力をなし、できるかぎり、キリスト教のグッド・ワークによって否定的な力と戦う必要があろう。
  本来のキリスト教の良い仕事観は、生産の場における意味と目的の感覚を持っていた。その意味は、実際の労働の場において、それを越えて人間の目的を指さしていた。このような意味の感覚が仕事に満足することに、責任感や説明能力を与えていた。」[27]。      
  更に小形氏[13]は、日本の労働の現状について次のように述べている。「ところで日本はどうだったか。明治以降急速に西欧化、工業化が進み、金融システム、株式市場など、近代国家の形成と資本主義のインフラ整備が、驚くべき速度で達成された。しかしながら、近代化の一歩目から、いささかいびつな形で走って来たのではないか。ある意味で優等生、しかし資本主義の源流にあったはずの「心」、ヴェーバーのいう倫理はついに持ち込むことができなかったように思う。このあたりがしっかり行なわれていたら、今日日本社会の抱える問題はもう少し変わっていただろうに。」[13]。
  このように、かって宗教改革時にあった良き職業の理念は失われてしまった。しかし近年、インターナショナルVIPクラブ、日本キリスト実業人会、フルゴスペル・ビジネスメンズ・フェローシップ・インターナショナル等の働きを通して、クリスチャンビジネスマンや壮年者達の中で、その良き職業の理念を、少しずつではあるが取り戻そうと努力がなされていることは、誠に喜ばしいことである。


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