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第一章 苦しい時は必ず過ぎ去る

川端 光生

■今の苦しみは必ず過ぎ去る

人生には苦しみはつきものです。人それぞれ、様々な苦しみを味わいます。苦しみのない人生というのは考えられません。しかし、どんな苦しみであっても、この地上には永遠の苦しみというのはありません。今の苦しみがどんなに辛くても、過ぎ去ることのない苦しみはないのです。何事にも必ず過ぎ去る時が来ます。

「私のこの苦しみは死ぬまで続く。生きていても意味がない」と思いこんでいるとき、人はその苦しみにだまされているのではないでしょうか。苦しみはいつまでも続くものではありません。「続く」と思うのは、心が苦しみだけに占領されているからだと思います。たとえ今までの人生が苦しみの連続だったとしても、その苦しみも終わる時が必ず来ます。楽しいことがいつまでも続かないように、苦しいこともいつまでも続きません。すべてものには自ずから終わりが来るのです。

■耐えられない苦しみはない

また、耐えられない苦しみというのはありません。人類の歴史上、誰も耐えられなかった苦しみというのはまだありません。あるのは「耐えようとしなかった人間」だけです。どんな苦しみであっても、それに耐えた人はいます。

自分の苦しみはだけは誰にも耐えられないと思い込む人たちに、苦難の人パウロはあっさりとこう言います。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません」(Iコリ10・13a)。つまり、すでに誰かに克服された苦しみであり、あなたにも耐えられるというのです。

■耐える道がある

さらにパウロは続けて、こう断言します。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(同上b)

苦しみには必ず耐えていく道があります。逃れる道が用意されています。その苦しみを克服した人たちは、その道を見つけ出した人たちです。

しかも、いつまでも耐えなければならないのではありません。苦しみは必ず過ぎ去るのですから、去る時まで耐えればいいのです。

■苦しみにも意味がある

また、苦しみに耐えて生きることには意味があります。その意味を見つけ出したとき、苦しみは過ぎ去ります。楽しいことも意味がなければいつまでも楽しめません。無意味な快楽はただの退屈や苦痛になります。逆に、苦しいこともそこに意味が見出されれば、希望が生まれます。そのとき、もはや苦しみは去ったと言えます。

人の心が求めているのは意味だと思います。人は苦しみに絶望するのではなく、苦しみに意味が見出せないことに絶望するのです。意味がなければ、無限の快楽だって人を絶望へと追いやります。大切なのは、意味を見出せるかどうかです。意味を見出すことができれば、どんな苦しみにも耐えることができます。そして、どんな苦しみにも意味はあるのです。

■どんな苦しみの中でも生きる自由がある

「私には生きている意味が感じられない。生きる喜びも希望もない」「生きることに疲れた。楽になりたい」と、人知れず苦しんでいる人は少なくないでしょう。長い人生でそのような思いに落ち込むことは珍しいことではありません。

しかし、たとえどんな苦境に陥ったとしても、人間には生きていく自由があります。人間は、どんなに絶望的な状態でも、生きていくことができるように造られています。生きようと思えば生きられるのです。そして、生きることを選ぶときこそ、人間は自由になっています。

「人間には死ぬ権利がある」という人たちがいますが、それはウソです。本来、人間は死ぬために命を与えられたのではありません。生きるために命を受けたのです。人間の自由は死ぬための自由ではありません。生きるための自由です。私たちは自分のために生きていなければなりませんし、それ以上に、私たちを愛する人のために生きていなければなりません。今は希望をもって生きることができないとしても、どんなに生きることが苦しくても、とにかく生きていることを選ぶのです。生きていることは誰にでもできます。そして、生きていれば必ず出会いがあります。あなたを見つけ出し、生きる喜びを回復させてくれる者がいます。

関東学院大学教授で植物学者であった大賀一郎という人は、一九五二年、千葉県検見川遺跡から二千年前の古代ハスの種を発見し、その種から花を咲かせました。その種は二千年間放置されていても命を失わなかったので、植物学者と出会ったときに花開くことができたのです。このハスは「大賀ハス」と呼ばれ、今も日本のあちこちの公園の池で咲いています。生前、大賀一郎は孫娘から、「ハスの花を咲かせる研究のために、どうして生涯をかけたのですか」と問われ、「神の御意志ですよ」と答えたそうです。忍耐強く生き続けているものを見つけ出して花を咲かせること、それが「神の御意志」ではないかと思います。

あなたがどんな事態に陥ったとしても、生きる道は用意されています。人は死にたいと思うとき、自分を救える者はいないと思い込んでいるものです。ほんとうにそうでしょうか。自分が知らないだけのことではないでしょうか。実際、どんな状況に置かれ、どんなに無力になり、どんなに絶望しても、そこから救い出される道はあるし、救い出されてきた人たちはたくさんおられます。

「言いたいことはわかるが、私の場合は別だ。何を聞いても解決はない」と思われる方もおられるかもしれません。もしそうなら、むしろその頑固な思い込みこそが、あなたを苦しませ、闇へと引っぱっているのではないでしょうか。

あなたがまだ気づいておられないことがあるのではないかと思います。人間、「生きている意味がない」と信じ込んでいるときは、かなり視野が狭くなっているといいます。八方ふさがりで、どこにも出口がないように思われても、まだあなたの知らない道があるのです。そうした道に気づいた人たちは、これ以上ないと思われる苦しみを通りながらも、生きる意味を見出して、生き抜いています。

■苦しみには必ず脱出の道がある

 すべての道がとざされたように思えても、脱出の道は必ずどこかにあります。今、状況は完全に行き詰まったように見えるかもしれません。でも、あなたの目にそう見えているだけのことではないでしょうか。あなたが苦しくて、辛くて、悲しくて、虚しくて、生きていても仕方がないと感じるとき、あなたには別の世界が見えなくなっているのです。今、自分に見えている世界だけがすべてだと思わないでください。別の世界が必ずあります。別の展望が必ず開けてきます。

ビクトール・フランクルというユダヤ人がいました。第二次大戦中、彼はナチス・ドイツの強制収容所に入れられ、家族も財産もすべて奪われ、文字通り虫けらのように扱われ、肉体的・精神的苦痛の極みをなめ尽くしました。彼の周囲では、同じような目にあっているユダヤ人が次々と死んでいきました。ドイツ兵に銃殺される者、病死する者、自殺する者、様々な死に囲まれていました。しかも、こういう状態にいつ終わりが来るのかわかりません。それでもなお、フランクルは希望を捨てず、生きる意味と勇気を保ち続ける方法を見出し、極限状態を生き抜きました。同じ強制収容所に置かれても、絶望の中で死んだ人もいれば、希望を持って生き延びた人もいたのです。どのようにして生き延びたのでしょうか。その方法は後で紹介します。

誰もが絶望し、絶対に生きる道はないと思うような状況でも、まだほかの人が気づいていない生きる道があります。もし「いや私にはもはや生きる道はない」と思っておられるなら、その思い込みから、一歩でいいですから踏み出てみてください。

あなたが今ぶつかっている苦しみはどんなに耐えがたく思われても、これまでも誰かが味わったことのある苦しみです。過去に一度も体験されことのない苦しみというのはなく、耐え得なかった苦しみというのもないのです。ですから、あなたもあなたの人生で、耐えられないような苦しみや悲しみに遭うことはありません。その苦難に耐えることができるように、必ず脱出の道も用意されています。それが人生なのです。

■だまされないで

 今の苦しみは必ず過ぎ去る時が来ます。そして、苦しんで生きることにもまた意味があります。私はそう確信しています。また、それは事実です。

先にも述べたように、「この苦しみは死ぬまで続く」と思うとき、あなたは自分の感情にだまされています。「続く」と思うのは、あなたの思い込みです。すべてはいつか過ぎ去るのです。しかも、たとえ苦しみの連続であっても、その苦しみにさえも意味があります。自分の思い込みにだまされないでください。

また、「私はすべてを失った。もう絶望だ」と思うとき、あなたは自分が作った幻想にだまされています。この地上に、あなたにとってすべてであるものなど、最初から存在しなかったのです。学歴、仕事、地位、社会的立場、財産、恋人、家族、健康、名誉、人の信用や愛・・もちろんあなたにとって大切なことでしょう。それでも、それらはあなたの人生にとってすべてではないのです。いや、一部にすぎません。

あなたは今の社会の風潮に、お金、名誉、健康、家族・・・がすべてだと思い込まされてはいませんか。それらは必ず消えてなくなる時が来ます。「持ったら、持たなくなる日がやがて来る。人は得るときには得るが、失うときには失うものだ。そして、何を持っても何を失っても、それは自分のすべてではない」という覚悟と確信が必要です。「仕事や社会的名誉がすべて」などという人生を送らないでください。仕事やお金がすべてだなんて、あなたはそんな価値の低い存在ではありません。

あるアメリカの最高峰のゴルフトーナメントでのことです。首位を行く著名なプロゴルファーがテレビのインタビューで、「ゴルフはあなたにとって何ですか」と質問され、次のように答えました。「ゴルフは私にとってすべてではありません。家族の方が大切ですから。」ゴルフができない体になったとしても、なお自分には残るものがあるというのです。「では、家族がすべてですか」と尋ねたら、彼はどう答えたでしょうか。「私は家族を自分以上に愛していますが、家族が失われても、なお自分には残るものがあります。」そんなふうに言いたげな口ぶりでした。日本には「野球が私の人生のすべてであり、野球をとったら何も残らない」などと言ってのける人がいますが、「学問やスポーツや芸術や音楽がすべてだ」なんて、人間の存在価値はそんなにちっぽけなものではありません。

あなたは、「この世がすべてである。今がよければそれでいい」という現世主義にだまされてはいませんか。「今がよければそれでいい」とは、裏を返せば「今が悪ければ、この世から逃げ去ればいい」ということになります。今の苦境があなたのすべてになり、この世から逃げ出したいとなるのです。あなたは現世主義の表側だけを見て、裏側に気づいておられなかったのではないでしょうか。

心の苦しみは体で解決させることはできません。体を殺せば苦しみは去ると思うのは、体がすべてだという考え方にだまされています。自ら体を殺せば、たましいの苦しみは無限の苦しみとなります。そして、あなたの周囲に大きな悲しみや重荷を残します。

あなたの命そのものに換えられるほど、価値あるものはこの地上にはありません。「ある」と思うのはだまされているのです。この地上にあるすべてのものは、地上と共に消え去ります。消え去るものには大した価値はないのです。あなたの命以上に価値のないものと、あなたの命を引き換えにしてはなりません。あなたの命は、あなたの命以上のものを獲得するためにあります。

 

 

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