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第四章 降りるのも一つの道

川端 光生

人間の心は無限に自由ではないにしても、多くの可能性を秘めており、多様な生きる道を考え付く能力を持っています。

しかしもし今あなたが、「私にはもはや生きる道がない。生きていても仕方がない。生きる意味もない」と思い込んでおられるなら、心が何かに縛られて不自由になっておられるのではないかと思います。人間、どんなに行き詰まったとしても、実はけっこう多くの選択肢が残されています。生きる道はいくつもあるのです。もしすべての道が閉ざされているように見えるなら、何かがあなたの目をふさいでいるのだと思います。

自由とは傷つく覚悟をすること

私たちは傷つきやすい時代に生きています。日本の社会は自由ですが、自由というのはけっこう人を傷付けるものです。「私は自由に生きたい」といって、自分の自由を押し通そうとすれば、必然的に他者の自由とぶつかります。チャンスや資源は限られており、誰もが自由を無制限に行使することはできません。それゆえ自由であろうとすれば他者とぶつかり、競争になります。競争があれば勝ち負けがあり、当然、勝者も出れば敗者も出ます。これは人間社会の現実です。負けた者は負けた者なりの道を選び取っていく覚悟をしなければなりません。つまり傷つく覚悟がなければならないのです。

あの学校に入りたい、あの人と結婚したい、あの職業に就きたい、あの地位を得たい、あの賞を欲しい、あの仕事で成功したい・・・そうなることを目指すのはあなたの自由です。しかし、みんなが自由ですから、当然自由競争となります。この自由競争の中では、だれもが挫折したり敗れたりして傷つきます。自由であるとは、傷つくことでもあるのです。

しかし今日、私たちは敗者になって傷つく訓練を十分に受けてはいません。社会は自由競争が原則なのに、家庭教育でも学校教育でも傷つかないように過剰に保護され、配慮されています。それゆえ挫折したとき、実際の傷以上に深く傷つくことになります。そして、人を妬み、社会を怨み、自分に絶望してしまうのです。

現実として、この自由社会は傷つくことを前提として成り立っているのだということを受け入れてください。傷つくのは自由人として当然なんだと覚悟ができれば、必ず別の選択肢が見えてきます。

降りることを選ぶ

さて、この自由社会で競争に敗れ、傷つき、挫折し、立ち上がる気力を喪失し、生きていく道が見出させず、どうしても生きることが苦しくなったら、いったん「降りる」ことを選ばれたらいいと思います。人生そのものから降りるのではありません。あなたが今まで歩んでこられた道、今立っておられる所から降りるのです。そこに執着されるかぎり、すべてが閉ざされているようにしか見えないことでしょう。しかし降りれば、いろんなしがらみや人の評価や慣習や伝統といった拘束から自由になり、新たな可能性が見えてくるものです。今立っておられる所から、右にも左も上にも進むことはできなくても、一歩降りることはできるはずです。

たとえば、エリートコースや出世コースから降りる、会社での地位や仕事や社会的責任から降りる、名誉やメンツから降りる、「いい人」「まじめな人」「優秀な社員」「立派な夫」「良妻」「おりこうな子供」であることから降りる、人々の期待や思惑にこたえようとする生き方から降りる、一家の大黒柱であることから降りる、今まで頑張ってきた人生の目標から降りる、のです。「そんなことは私にはできない。それは私にとって、人生の自己破産宣告をするようなものだ」と思われるかもしれません。大丈夫です。自己破産宣告をしても人生はそれで終わりません。それで人生の敗者になると決まったわけではありません。

いったん挫折すること、いったん敗者になること、傷つくこと、屈辱、他人の嘲笑を受け入れることを選ぶのです。頑張りきれなくなったら降りることもできるのだという「ぎりぎりでのゆとり」を用意しておくことは大切だと思います。

あきらめるべきことは上手にあきらめて、じたばたしないことをよしとするのです。簡単にあきらめていいわけではありませんが、自分の力の限界がくれば、より価値の高いものを守るために降りるのは悪いことではありません。人生と命を守るために、この世のあらゆることを、降りる選択肢にしておくべきです。この世のことをすべてあきらめてしまって、一度身軽になるのはけっして悪いことではないと思います。それは人生そのものを降りることでは絶対ありません。

もちろん、軽々しく降りるべきではないでしょう。それでも道が閉ざされて死ぬしかないと思いつめるようになったら、降りてもいいのだということを心の片隅に留めておいて欲しいのです。人に蹴落とされるのではありません。自分の意志で選び取った決断として、自ら降りるのです。

人の目や声や評価に左右されないでください。あなたが降りたことで、人があなたをどう決め付けたとしても、あなたの実質は何ら変るわけではありません。人にほめられてもあなたの実質が高まるわけでないように、けなされても下がるわけではないのです。

「人に弱点を見せてはいけない。弱いやつと笑われてはならない」という強迫観念が、どれだけあなたの心の世界を狭くしていることでしょうか。それから解放されることが、どんなにあなたに新しい可能性を開いてくれることでしょうか。苦しみの中で極限まで耐えながら強く生きようとするのも一つの道かもしれません。しかし、一旦降りることももう一つの道です。それは人生の最終的な敗北を意味するものではありません。

真の自由人とは、人生で何を失っても絶望しない自由をもっている人のことです。

■挫折は人生の一コマに過ぎない・・・必ず別の道がある

 では、なぜ降りられるのでしょうか。なぜ人生の自己破産宣告のようなことをしてもいいのでしょうか。それはこの世で一時的に敗者になっても、別の道が必ずあるからです。逃れの道は必ずあります。敗者には敗者なりの自分を生かす道があります。前進、飛躍だけが人生ではありません。後退、どん底もまた人生です。失敗する、負ける、窮する、傷つく、面子が潰れる、あきらめる・・・・そうしたことは人生の一コマであって、人生のすべてではないのです。

 何年か前の夏の高校野球甲子園大会でのことです。西東京代表の桜美林高校は八回まで勝っていました。しかし、その八回の守りの時に内野手の考えられないようなエラーで逆転され、九回は窮地に立たされました。それを土壇場で更にひっくり返して劇的な勝利を収めました。試合終了後、監督がインタビューを受け、「あの内野手のあのエラー」について質問されました。監督は軽くいなすようにこう答えました。

「エラーも野球の一部ですから。」

 このひとことが致命的なエラーを犯した選手をどれだけ励ましたことでしょうか。

 私たちの失敗もまた「人生の一部」です。人生は失敗を前提として成り立っているのです。勝利の人生とは、多くの失敗や悲劇の上に築きあげられるものです。

 これまであなたが歩んでこられた道は、人生の数多くある道の一つに過ぎません。その道は、あなたにはすべてのように見えているかもしれません。けれども、まだあなたがご存知ない別の道があるのです。むしろ、その別の道こそあなたが本当に生かされる道なのかもしれません。絶望したり行き詰まったりするのは、あなたのために本来用意されていた道を見出すための機会ではないでしょうか。聖書にも、「彼らがこの町で迫害するなら、次の町に逃れよ」(マタイ10・23)という言葉があります。同じところで倒れるまで踏ん張らなければならないということは、絶対にないのです。

 真の自由人とはそうした「ゆとり」を持って生きている人のことだと思います。

■苦しみの時を泣いてやり過ごせ

 今のあなたの苦しみは一時的なものであり、絶対に一生続くものではありません。いつかは終わります。いつかは終わることに対して、「死」という永遠の答えを出すことは愚かしいと思うのです。

 今の挫折感、空虚感、屈辱感、孤独感、絶望感が、自分の人生のすべてだと思い込んでいるのは、あなたの感情ではありませんか。人は疲れ果てると、否定的な感情が支配するようになります。感情は長続きしません。その感情が和らぐと、うそのように「死にたい」という気持ちも消えていきます。まず、時間を一か月でも一年でも置いてみることが大切です。周囲の状況も変わり、あなたの心も変わるかもしれません。

 聖書の中に、自ら自分の人生に終止符を打った人たちが何人か出てきます。イエス・キリストの十二弟子のひとりユダもそうです。彼は銀貨三十枚でキリストを裏切り、敵に売りました。その結果、キリストは十字架につけられることになったのです。ユダは、自分のせいでキリストが処刑されるということを知って後悔し、受け取った銀貨三十枚を返すために敵のところに行って、こう言います。「私は罪を犯した。罪のない人を売ってしまった。」しかし、敵は「我々の知ったことか。自分で始末をつけることだな」と吐き捨てました。この言葉にユダは絶望し、事を急ぎます。すぐさま出て行って、銀貨を神殿に投げ込むと、首をくくって死んでしまいました。彼は時間をおくことができなかったのです。ただ三日がまんして待てば違った局面を迎えられたのに、自分で先走った結論を出してしまいました。

 さて、キリストを裏切ったのはユダだけではありません。十二人全員がキリストを一旦見捨てました。そのひとりペテロは、「たとえ死ななければならないとしても、あなたについていく」とキリストの前で誓ったほどでしたが、危険が迫るとあっさり、その誓いを破りました。「お前もイエスの仲間だろ」と三度問い詰められ、三度とも「そんな人は知らない」と言い張ったのです。しかも、呪いを込めてキリストを否定しました。そして、彼もすぐさま自分の口から出た言葉の重大さに打ちのめされました。ユダと同じく、もはや生きてはいけないほどの自責の念に落ち込んだことでしょう。ところが、ユダとは異なり、ペテロは死ななかったのです。

 ペテロはどうしたか。彼は出て行って激しく泣きました。キリストが十字架につけられたその日から、おそらく三日にわたり泣き続けたことでしょう。彼には泣くこと以外のことはできず、泣きながら時をやり過ごしたのだろうと思います。

 そして三日目の朝を迎えます。キリストは予告されていた通り、死からよみがえりました。ペテロはその復活のキリストに出会い、裏切ったことに対する赦しを受け、キリストから新たな生きる道を示されます。さらに五十日後、彼は初代キリスト教会のリーダーとなりました。現在のキリスト教会は、このペテロにキリストが授けられた「天国の鍵」を受け継ぐものです。

 ユダとペテロの人生を闇と光に分けたのは何でしょうか。それは、闇の時が過ぎるのを待てたか、待てなかったかの違いです。ユダは自分に絶望して待つことができず、自分で終止符を打ちました。ペテロは苦しい時を涙でやり過ごし、待ち続けました。私たちも、泣き叫びながらでも時が過ぎるのを待てばいいのです。いつまでも闇は続きません。必ず光は戻ってきます。明けない夜はないのです。

 ペテロの三度の否認はとても有名な話なのですが、彼の人生においてはたった一コマに過ぎません。しかし、ユダの裏切りは、自殺ゆえに、ユダの人生のすべてになってしまいました。

一旦、逃げ出しなさい

 人が死にたいと思うのは、苦しいから、悲しいから、辛いから、疲れたからなのではなく、その苦しみや悲しみから逃げ出したいだけなのではないでしょうか。

 そうです。逃げ出してもいいのです。人生には逃げ出していい時があります。逃げる場所があるからです。ペテロは逃げ出して、しばらく隠れていた人です。彼のように逃げ出して、隠れて、命を得て、また自分の人生を立て直せばいいのです。『十戒』や『プリンスオブ エジプト』といった映画でも知られるモーセという人物も、実は挫折して、荒野に四十年間逃げていた人です。隠れ住んで八十歳になったとき、主なる神に呼び出されて、「出エジプト」という民族大脱出の指導者になりました。

 あなたの本当のお気持ちは何ですか。本当に人生に終止符を打ってしまいたいのですか。生きられるものなら生きたいのではありませんか。それが本心なのではありませんか。もし本心がわからないのなら、今は行動に出ないで、時を置いて心が落ち着いたときに、自分は本当はどうしたいのかもう一度考えてごらんになりませんか。

 あなたには死ぬ自由はありません。あるのは生きるための自由だけです。生きるためには、一時期、降りて、逃げ出して、隠れて、泣きながら時が過ぎるのを待ってもいいのです。

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