「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。(ヨハネの黙示録3:20〜22)
誕生したばかりの赤ちゃんはお母さんに向かって何の恐れもなく心を開いて頼ります。そうしなければ生きていくことが出来ないからです。でも、時が経ち、赤ちゃんの世界が広がって周りの世界に興味を抱き始めるとそのような態度は薄れて行きます。何故かと言うと自我が芽生え、自分を主張し始めるからです。
丁度同じようにわれわれクリスチャンも神様に頼らなければ生きていけないことが分かっていても、自己が強くなって全面的に神様に心を開かなくなるのです。
Oハレスビーは祈りとは心を開いてイエスをお迎えすることだと言っています。また、私たちが祈ることが出来るのも、いつも、イエスが私たちの心を叩いて下さっていることの結果であるとも言っています。問題はこちら側の態度なのです。もし、心を開いてイエスを心の中心に座して下さるように自分を明け渡すことができるなら、イエスは喜んでそうして下さって天の祝福をもって私たちの心、そして生活をも満たして下さいます。
黙想:神はあなたの心の扉を叩いています。どういうふうに分かりますか。
賛美:賛美歌 310 [しずけきいのりの]
祈り:主よ、心開いてあなたを迎えます、そうか、私の思いを御支配ください。アーメン。