「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」(使徒行伝
1:8)
演劇演出家、浅利慶太さんの20世紀への言葉「舞台に生きよ」で、「人は演劇をただ見るのに来るのではなく癒しを求め、また自分の生き甲斐を確認したり、生き甲斐を見出すために来るのです。そこには感動がなくてはなりません。その感動を創造するために役者は自分が感動し、それを客観的に表現するプロである」と。
教会に来る人も同じようなものを求めて来ます。だとすれば教会はそういうものを見せなければ、また、語らなければなりません。われわれの感動とはイエス・キリストの感動です。悪魔の誘惑、福音宣教、弟子選び、病を癒す奇跡、罪人を許す場面、傲慢な律法学者たちや、悪意の指導者たちへの批判、ゲッセマネの祈り、裁判の場面、そして十字架、死を前に吐露された深い人類への赦しと祈りなど、どれもこれも命がけの挑戦でした。
礼拝は、また、イエスに出会った人々の感動を追体験する時です。救われた人の喜びと讃美、罪を許された人々の感謝、師を失った弟子たちの不安、しかし最後には主が生き返って弟子たちに現れたときの弟子たちの安堵、それを伝える喜びなどです。
イエスは偉大な神の人間救済のドラマの演出家です。そのドラマの中で誰もある役を演じなければなりません。クリスチャンは教会を舞台にして演じる役者です。教会にやってくる人々に自分たちの感動を見せているのです。
黙想:人はみな人生舞台に立っていませんか。
賛美:聖歌 626 「かたりつたえよ」
祈り:主よ、あなたの感動を与えたまえ。アーメン。