賛美のこころ 工藤篤子

 


目次

 著者
工藤篤子
  プロフィール

第T部 私の走るべき道のり

第1章 歌唱に慰めを見出して

“優等生”と呼ばれたその陰で
私は北海道の岩見沢で生まれた”道産子“です。父は警察官、母は銀行員で、私は一人っ子として育ちました。やがてほかのお友達のように、自分にもきょうだいが欲しいと思うようになりました。私が7歳になったとき、ようやく待望の妹・睦子が生まれました。
睦子がまもなく1歳になろうとする頃のことです。睦子は、立てかけてあった折りたたみ式の重たいテーブルを、這い這いをしながら後ろ足で倒してしまったのです。テーブルは睦子の頭上に倒れ、その強烈な打撃が原因で、あの子は知的傷害をもつ身となってしまいました。
医師は「脳がダメージを受けています。今後成長するにしたがって、脳に受けた後遺症がどのように変化していくのか私どもには想像がつきません」と言うだけでした。
母は銀行員の仕事も辞め、睦子の育児に全力を注ぎ始めました。自分の不注意によって大事な娘を障害児にしてしまったという自責の念から、罪滅ぼしをするような気持でそうしたのではないかと、私は今になって思うのです。しかし子どもだった私には、母の心中を推し量るゆとりなどありませんでした。
やっと妹ができたと喜んだのもつかの間、母の愛は睦子1人に向けられていくばかりです。私は放っておかれることが多くなり、これには内心穏やかではありませんでした。お小遣いさえもらえなくなりました。母はそのころから、自分たちの老後と、働くことのできない睦子が一生暮らしていけるように、生活費を少しでも蓄えておきたいと考えたからのようです。
やがて父の転勤に伴って、私の中学入学を機に一家は札幌に引っ越しました。

 私は父の厳格なしつけを受けたせいか、自分で言うのも変ですが、いつも優等生として通ってきました。しかし家の中で自分が無視されていると思うと、次第に気持がすさんでいくのが自分でもわかりました。家に帰っても面白くないから、家の貯金箱からこっそりお金を盗み出しては、鬱憤晴らしに町に出かけていっては買い物をしました。それにとどまらず、万引きを始めるようになりました。お小遣いをもらえないんだから、自分で何とかするしかない、と正当化したのです。しかもうわべだけは、あいかわらず優等生を装ってきましたから、妹のことで手一杯な母の前で、愛情を求めたり寂しさを素直に訴えることができなかったのです。
しかしどんなに万引きをして鬱憤を晴らそうとしても、心が晴れるわけがありません。それどころか罪意識が増していくだけでした。一方で、自分をそこまで惨めな状態に追いやった母への恨みと、母の愛を独占している妹への嫉妬心がとめどなく頭をもたげてくるのでした。まもなくそんな葛藤は、自律神経失調症という形で現れてきました。人に向き合うと赤面したりどもったりするので、登校するのもおっくうになっていくのでした。
そのうえ幻聴や幻覚にも襲われるようになったのです。たぶん中高生の頃からだったと思います。昼間、何かの拍子に人の声が聞こえてきました。ほとんどが私を叱っている時の母の声でした。それが何度も聞こえてくるのでした。
昼間町を歩いている時、建物の壁や床に、見知らぬ人の顔が次々と瞬間的に浮かび上がってくることもありました。夜、自分の部屋のカーテンの模様全体が人の顔になって見えたりもしました。夜中に眠っていると、ドアから得体の知れない者が入ってきて、馬のひづめのような足で私の体を押さえつけるという、金縛りの状態も何度も経験しました。それで怖くてたまらず、電灯を消さないで寝るようにしていたのでした。
それでも傍から見る限り、依然として優等生であり続けました。しかもあいかわらず万引きはやめることができず、誰にも知られないまま続けていました。

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