賛美のこころ 工藤篤子

 


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賛美のこころ
賛美のこころ
ー主のみ顔を仰ぎつつー

ISBN978-4-903748-02-3
C0016 Y1500E
定価:[本体1,500+税]
好評発売中
イーグレープより発行

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工藤篤子
プロフィール

第三章 献身、ドイツで教会開拓
不従順、悔い改め、赦された喜び

 こうしてスペインで歌い、ドイツに戻っては伝道活動をするという生活を続けていきました。しかしあいかわらず食うや食わずで、その日暮らしであることには変わりありません。そんな生活が二年目を迎え、私の評判がスペインで高まるにつれ、一体私は歌手なのか宣教師なのかわからなくなって、神のみこころが見えなくなってしまいました。
  一番の原因は、生活苦に振り回されるあまり、神の救いを宣べ伝えるよりも、スペインでコンサートの出演料を稼ぐことが第一の目的になってしまったことです。日々の生活をイエス様に委ねてイエス様のために歩む、という初心からずれ始めた私は、依頼されたコンサートは全部受けるようになりました。そうなるとコンサートの準備で精一杯で、ドイツでの宣教活動の時間が取れなくなりました。しかし、ダニエル先生はそんな私を批判しませんでした。私に給与を支払えない以上、アルバイトを容認するしかないのでした。

 Aさんは、一九八九年にスペインで出会った初老のノンクリスチャンでした。マドリッドの音大教授で宮廷音楽士の称号を持っています。音楽事務所も持ちスペイン音楽界の重鎮でした。ハンブルク出身の夫人を亡くしてからも、よくハンブルクに来ておりました。
  彼は「あなたの声に惚れた」と言って、私が出演できるようにと、一生懸命コンサート企画を持ってきてくれるのです。私が世界でも超一流とされるドレスデン交響楽団などと共演したり、現代音楽の著名な作曲家・ペンデレツキと食事を共にしたり、スペイン国王臨席の王宮コンサートにも数回出演したというのは、すべてAさんのアレンジによるものでした。
  当時、私のコンサートのプロフィールには、実年齢よりも若く二十六歳と記されていました。Aさんのさしがねです。これはほんの小さな罪でしたが、それを許してしまったため、サタンはそこを足場にするりと入ってきたのでした。Aさんは私との結婚を考え、私もその気になりかけました。献身生活を捨て、声楽の道すら捨てても惜しくないとさえ思えてきたのでした。
  ところが、一九九〇年一月、コンサートに忙殺されてドイツとスペインを頻繁に往復しているうちに、過労でとうとう倒れてしまい、ヘルニア手術を受けるため入院しなければなりませんでした。このとき私は初めて、主に不従順に歩んできた自分に気づかされたのです。
  退院後すべてのコンサートをキャンセルして、一年間神様との交わりの時をもつことにしました。そこで示されたのが、私の内に根を張っていた苦々しい思いでした。
  私の心がAさんに傾いたのは、私が歌手になり、誘惑が多い音楽の世界に生きていたからではありません。私をドイツでの開拓伝道に巻き込んでいった神様とダニエル先生夫妻を、気づかないところで徐々に恨むようになっていたことが原因だとわかったのです。
  何度も申し上げますが、あの頃はその日の食事にも事欠くような貧しさでした。おまけにドイツ人には東洋人への差別意識が根深く残っており、日本人の私は何かにつけ有形無形の差別を受けていました。
(私をこんな目に合わせるなんて……。ダニエル先生たちはひどい)
  一方で、Aさんは私に「あなたが欲しいものは、何でもあげますよ」と言って、自分の能力も財力も私に捧げようとしていました。前者と後者には雲泥の差があります。それで、私の心はAさんになびいていったのでした。
  そんな私の気持を知ったクラウディア夫人は、「あぁ神様。アツコは霊的に病んでいます」と言って、私の目の前で初めて泣きました。どんなに苦しいことがあっても「神様が導いてくださるから大丈夫」と言って、決して涙を見せる人ではなかったのに。これは私にとって最大のショックでした。
(あぁ、この人をこんなに悲しませてしまって……。申し訳ない)
  よく考えてみれば、ダニエル先生夫妻自身大変な苦境の中を、毎日のように私たち献身者を食事に招いては、余った食べ物を持ち帰らせてくださっていたのでした。だのに彼らへの恨みが私の心の目をくらませ、そのような思いやりを見えなくさせていたのです。
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇一三九・二三、二四)
  ここに至って、私ははっと目が覚めたのです。神様に光を当てていただいて心の中の汚い部分を示していただき、毎日涙を流しながら一つひとつ告白しては悔い改めの祈りを捧げていったのでした。告白し始めたら、主の光はさらに心の汚い部分に当てられていき、気づかなかった罪がもっと見えてくるのです。その間、特にガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙を何度も繰り返して読みました。みことばと祈りの時は一日四〜五時間、それが五〜六か月続いたかと思います。
「私は言います、御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためにあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」(ガラテヤ五・一六、一七)

 退院後スペインに行って、Aさんに別れさせてほしいと頼みました。しかし何度頼んでも彼は納得してくれません。私は「神様、私の力ではAさんと別れることはできません。あなたがどうか導いてください」と祈ってから頼んだら、すんなりと納得してくれました。彼は、私が教会献身者であることはよく分かっていました。
  Aさんが私のためにアレンジしたコンサートでは、私には選曲する自由がなく、いわば籠の鳥のようなものでした。Aさんと別れた後、私はすべてのコンサート出演を、主のみこころを伺いながら決めるようになりました。

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