賛美のこころ 工藤篤子

 


賛美のこころ - 目次 -


賛美のこころ
賛美のこころ
―主のみ顔を仰ぎつつ―

ISBN978-4-903748-02-3
C0016 Y1500E
定価:[本体1,500+税]
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工藤篤子
プロフィール

第1章 私の体験的賛美試論

日々五つの感謝を捧げて

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103・2)


ハンブルクの教会で伝道師をしていたころのことです。家庭環境に恵まれなかったBさんは、大学卒業後鬱病になってしまい、精神科病棟への入退院を繰り返した後、私たちの教会の礼拝に来るようになり、表情もだいぶ明るくなりました。

ある日、彼女はその理由を説明してくれました。それは、毎晩寝る前に神様に五つの感謝を捧げているからだというのです。たとえば五体満足で動けることや、毎日三度の食事ができること、パン屋さんの店員がほほえんでくれたことなど。感謝したいなんて思えなかったようなことも感謝できるようになったら、自分の人生は悪いことばかりじゃないんだと思えてきたのだそうです。

彼女のコメントを聞いてハッとさせられました。私は神のために生きている、神に従っていると言いながら、寝る前に感謝の祈りを捧げたことなどめったになかったからです。それどころか(あー、今日はしんどかった)などと、愚痴を言うことのほうが常でした。

その夜から、私も彼女にならって寝る前に五つの感謝を主に捧げるようになりました。そうしたら、一日いかに主に守られ、たくさんの恵みをいただいたかが見えてくるではありませんか!
私たちは、自分たちの抱える問題や困難に簡単に目を向けてしまうものです。そして思いがそこに集中してしまうために、そこを通して働こうとしておられる主のご計画にまで思いをはせることができません。問題が大きければ大きいほど、主はそのことを通してご自身の力を私たちに示そうとなさっているのに……。

しかし、感謝の祈りを始めてから、私の目は、自分の問題にではなく主に向けられるようになっていきました。感謝と共に眠りについた翌朝は、感謝と共に目覚めるようになりました。同時に私の賛美も変わっていったのです。そのうちに、口から「Danke, Herr!(主よ、感謝します!)」という言葉がひんぱんに出るようになりました。

以前は気がつかなかった主の守りと導きも見えるようになってきました。問題にぶち当たった時にはすぐさま神に祈り、主がみこころを成してくださると信頼できるようになっていきました。それどころか、その問題にさえも「Danke, Herr!」と言えるようになっていったのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8・28)

このみことばは、ドイツ語のルター訳聖書には、「すべてのことをベストにつながるように働かせてくださる」と書いてあります。問題や困難を、神が私たちのベストにつなげてくださることを信じる者たちは、何と幸いでしょう!

その頃からです。賛美が自然と口から湧き出るようになってきたのは。それまで私は教会の賛美指導者でありながら、普段の生活の中で、賛美が口から湧き出てくることはめったにありませんでした。当然のことですが、賛美が口をついて出なかったのは、賛美の思いが心になかったからです。あっても、その思いが溢れていなかったのです。賛美が口をついて出るようになったのは、主への感謝が心から外に溢れるようになったからです。

確かに、とても賛美できるような状況ではない時もあります。母が突然亡くなった後などは、しばらくはとても歌えるような心境ではありませんでした。けれどもある日、「カドシュ――聖なるかな」(黙示録四・八)をかすかな声で口ずさんでみたのです。すると突然、主のご臨在を感じました。母は今この栄光の主のみ前で安らいでいるのだと思うと、感謝でいっぱいになりました。主の慰めを感じ、再び賛美の思いが溢れるようになりました。「慰め主」の慰めには、励ますという意味が含まれているそうです。そして今回ほど、イエス様は慰め主、という意味が理解できたことはありませんでした。

「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル13・15)

日本の音楽教育に思うこと
私が声楽の個人レッスンで繰り返し指導するのは、声を骨に響かせ体から解放させることです。そうなって初めてその声を用いて表現できるのです。しかし、うまく歌いたいとか、いい声を出したいという欲があると、かえってうまくいきません。声が肉に響いてあごや喉に力が入ってしまうからです。日本人には特にその傾向が強い。これはまさに、信仰の世界と同じです。
このように説明すると、生徒たちは少しずつ理解してくれるようになりました。でも信仰がないとわからないかもしれず、信仰があってもこの発声を身につけるのは難しいのですが。

「あなたは何のために歌うのですか?」

私は生徒たちに聞きます。生徒がドイツ人の場合「この作曲家の作品が好きなので、ぜひ歌えるようになりたい」とか、「ドイツ歌曲芸術の醍醐味を追究したいから」等々、目的をはっきり言える人が多いです。ところが日本人は「オーディションに合格したいから」とか、「声がいいと言われたので歌ってみたい」など、動機がどうも浅はかな人が多いのです。そういう人には「もう習いに来なくて結構ですよ」と言いたくなります。

「リサイタル、どうでしたか?」と私に聞かれて「大成功でした。皆さんが喜んでくださいました」と答える生徒に、私はよく問い直します。「あなた自身は、曲の本質的なところを表現できたと思う? 世間で評判がよければ満足なわけ?」

生徒をほめて成長させるタイプの先生がいますが、私にはそれができません。私のところに習いに来ている生徒たちは、欠点を指摘されてもめげず、自分の現状を直視でき、もっと向上したいと願う人がほとんどです。私はそれぐらいの気構えがないと、ものごとを極めることはできないと思っています。

ピアノ伴奏者にしても、日本人には歌詞を十分に理解せず何も考えずに弾いている人が見受けられます。日本で賛美活動を始めて、まずそのことに驚きました。そういう教育を受けてきた結果なのでしょう。以来私は、選曲のあと楽譜の下に歌詞の意味をこと細かに書き込んで、事前に伴奏者に送っておくことから始めたのです。

たとえば歌詞が「美しい」と記されていたら伴奏も美しく、「鳥がさえずっている」とあれば伴奏も鳥のさえずりを表わす。これは基本中の基本なのですが。バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」を伴奏する場合、ピアノの三連符は三拍子で三位一体を表わし、同時に喜びを表わしながら声を支えていきます。右手の三連符の最初の音は休符になっています。これは「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)と語られたイエス・キリストを表わしています。そういった曲の意味を察知せず、歌手の声も聞かず、音を出すことだけにとらわれているために、不調和な弾き方をしてしまう伴奏者が多いのです。

それにしても賛美奉仕者は、イエス様のもとで安らぎを得る体験抜きには、この曲が意味する喜びを身をもって表わすことはできないのではないでしょうか。伝道コンサートなのだから、奉仕者の信仰生活が問われるわけです。日々の忙しさに埋没しがちだからこそ、祈りつつ感謝しつつ、神様の栄光が現われるように奉仕したいものです。

ある著名な日本人歌手から、歌詞のフランス語とドイツ語の発音を教えて欲しいと頼まれたことがあります。その方は歌詞の要約しか把握していませんでした。歌は一言一句のニュアンスが大切なのだから、要約だけわかっていても表現できません。これも基本中の基本です。
どの国の言葉にせよ、一つひとつの言葉には必ず感情が伴っています。たとえばドイツ語で光を意味するLicht(リヒト)の発音は光が見えるような語感が伴っているでしょう。死を意味するTod(トートゥ)を発音する時、あたかも死を実感させるような底深い響きがします。それは、日本語で「優しい」とか「柔らかい」という発音にそのとおりの感情が現われているのと同じです。

私が一時期教えていただき、来日公演を重ねて日本でもよく知られていたフランス人バリトン歌手、ジェラール・スゼーはこう言いました。

「楽譜に書かれていることを丁寧に読みとりなさい。言葉から言葉へ、音から音へ、和音から和音へ、フレーズからフレーズへ。作曲家はなぜこの言葉に対してこういうメロディーを付けたのか、なぜそこにそのような伴奏を書いたのか、なぜこう流れていくのか。それを最初に読み取り理解できるようになったら、次には目に見えない音楽を楽譜から読み取っていくのです。本当にいつくしんで、一つひとつ丁寧に愛撫するように扱うのです。そうすれば見えてきます」
これは信仰の世界と似ていると思います。私は、彼が言うような方法で聖書を読み進めていったのを思い出しました。この箇所は何を言っているのか見えてくるまで、何度も繰り返して聖霊の導きを祈り求めながら読みました。

ヨーロッパの人は概して言葉に厳格ですし、声楽家は言葉をよく学び理解してから歌います。特に歌は詩だから、音型と言葉の関係に注意を払うわけです。詩のさまざまな形式、その歌が生まれた時代背景等も調べ上げたうえで、歌詞を読み込んで表現していくのです。当然、文学の素養が前提となります。

これは、一時期私の伴奏をしてくれたピアニスト、アレハンドロからも教えてもらったことです。彼は自分が伴奏する曲の歌詞にこだわります。一言一句の意味だけでなく、ここでこの言葉が使われている理由がどうしてもわからない時には、作詞者が存命していれば会いに行ってまで聞き出すのです。どんな分野であれ、あいまいにせずに突き止める姿勢の大切さを教えてもらいました。

私は、スペインでこのような貴重な学びができたことを心から感謝しています。日本で伝道コンサートにお招きくださった教会で、礼拝後聖歌隊の賛美指導をさせていただいたこともあります。日本の賛美指導の現状を見るにつけ、これまで私が学んできたことをもっとお分かちすべきではないか、それが、日本では受けることのできない多くのことを学ばせていただいた者の役目の一つかもしれない、と思わされています。

 

 

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