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著者プロフィール


経営者のための聖書経営学セミナー
「聖書から学ぶビジネス戦略」PART V

黒田禎一郎
  (リンク→)ミッション・宣教の声 アドレス:http://vomj.jp


−「山上の垂訓とビジネス」から学ぶキリストの人材教育(X)―1

 今日の日本社会における最大の問題は何かと尋ねるならば、私は結局のところ「心の問題」ではないかと思います。企業にある汚職や不正の問題、家庭にある問題、そして大きな混乱をかかえる教育界の問題等、突き詰めれば「人の心の問題」であり、個人の内側が問われています。聖書は私たちに、内側にあるものが外側に表れるといいます。したがって、私たちの思考や願望など内側にあるものが、外側に出てくることを教えています。ところで、聖書で最もよく知られた個所は、「山上の垂訓」と呼ばれる個所でしょう。これはイエス・キリストが公生涯で、初期の頃多くの群衆を前にして語られたお言葉です。この美しい垂訓を一読して、「山上の垂訓」は私たちの日常生活と関係ないのではと、思われる方もおられましょう。しかしながら、この「山上の垂訓」は大変重要な視点を教えています。

マタイの福音書(5:3-10)には次のように書かれています。
1. 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
2. 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
3. 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
4. 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
5. あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
6. 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
7. 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
8. 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。

 ここに「・・・者は幸いです」という八つの垂訓が書かれています。これを「山上の垂訓」と呼び、別名「八福の教え」とも言われます。この八訓を注意して読みますと、第一訓から第四訓までが、神と人との関係です。そして後半の第五訓から第八訓までが、人と人との関係について書かれていることが分かります。原文では、この「幸いです」という言葉が冒頭に来ています。ドイツ語訳や英語訳聖書の多くは、「幸いです」という言葉で始まります。また日本語の口語訳聖書も「幸いなるかな……」という書き出しです。すなわち強調文が冒頭に来ているのです。

この垂訓は「幸いである人」と、一体どのような人かを、八面の異なる角度から教えています。さらに端的にいうことが許されるならば、「人が人として生きる生き方」を教えていると言えましょう。人生にはさまざまな試練があり、人は窮地に陥ることもあります。私たちは絶体絶命の窮地に立つ時、どのような判断をするかが問われます。日頃の習慣の積み重ねが、その人の判断と行動に大きな影響を与えるものです。今日は第六訓(8節)の「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」という一節から、考えてみましょう。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」という文章は、短く簡単ですが含蓄ある深い文章です。

 第一番目に、「心のきよい者」とは一体どのような人でしょうか。まず聖書の語る「心」という言葉は、人の考え、思考、情、意思の総合的存在を表しています。ですから、人の中心と言ってもいいかもしれません。そして、「きよい」という言葉はギリシャ語(新約聖書はギリシャ語で書かれている)で、「カサロス」という言葉です。この言の意味は「混ざり気が何もない」、「水で希釈もされていないほど純粋なもの」、という意味です。ですから、「心のきよい」とは、「二心でなく、一心に、ひたすらに神を求める人」という人です。

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