「人生の壁を破る生き方」

黒田禎一郎牧師  (リンク→)ミッション・宣教の声 アドレス:http://vomj.jp

黒田禎一郎
著者プロフィール

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  ―絶望の壁を破る―

 聖書は、私たちに「人生の壁」をどのように破り生きるか、その秘訣を教えています。人は人生で絶望を感じることがあります。ある方は重病にかかり、自分の人生は絶望だと考えます。ある方は仕事で先が見えず行き詰まり、絶望を感じる方もいます。今年も日本と世界各地で、自然災害が起こりました。そこで大被害を受けた人は、立ち直ることが難しく絶望感に浸っているかもしれません。生きる希望さえ失っているかもしれません。では、聖書の教えとは一体なんでしょうか。今日、私はその点を考えたいと思います。

 先ず旧約聖書・詩篇42篇をお開きください。
42:6 私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。
42:7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。
42:8 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。
42:9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」
42:10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるか。」と私に言っています。
42:11 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。 (新改訳聖書)

 この個所の特徴は、前節の5節に「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか」と、最後の11節に「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか」と、同じ表現が2度見られるところです。作者は6節で、「私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします」、と歌いました。これは魂の絶望を歌った個所です。「ヨルダンとヘルモンの地」とは地理的にイスラエル北部位置し、そこで海抜3千数百メートル級の高さを誇るヘルモン山のことです。山頂の雪は万年雪で、それが溶けてヨルダン川に注がれます。ここでいうヨルダンは地名ですが、もう一つのミツァルという所は、南の方にある場所です。正確にそれがどこかということは、今日まだ分かっていません。しかし、ヨルダンとヘルモンの地はイスラエル北部で水源地、水が採れる所です。そして、その水が南下しミツァルの山に流れていく水流のことを歌っています。

<絶望した自分>
  作者の魂は、絶望していると歌いました。「あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました」〔7節〕。「大滝のとどろき」とは、神の試練という大波を受けた状態です。神の試練という大波は、作者の頭上を越えるほどの大きさを歌っています。自分が乗り越えられないほどの大波のとどろきが、自分を襲い頭を越えたのです。9節を読むと、『私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか」』とあります。これは作者がいかに孤独な状態に置かれたかが分かります。作者は神から忘れられた存在の自分、独りぼっちになった自分、自分の側に付いてくれる人は誰もいない状況に置かれました。彼は大きな闘いの渦中に置かれ人でした。

 10節では、『私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるか」と私に言っています』と歌いました。敵対者が自分をそしり、精神的な圧迫を受けました。ここでは他人から中傷され、傷つけられ、精神的圧迫を受けた状況が歌われています。そのような中で彼は、「なぜ、おまえは絶望しているのか」と歌いました。確かに彼は絶望していました。私たちはこの詩で注目したい点があります。それは最後の11節です。「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」。一方で彼は、大きな絶望感を味わいました。神からも見捨てられたような絶望感、その大滝のとどろきが自分の頭の上を越えてしまうほどの大試練に遭い、文字通り絶望感に浸りました。ところが最後の個所を見ると、彼は希望ある詩を歌っています。「なぜ、御前で思い乱れているのか」、すなわち作者はこのようなプロセスを通った人なのです。

<神を待ち望め>
  しかし、作者が一番言わんとしていることは後半の、「神を待ち望め」です。この言葉のドイツ語訳は素晴らしく、「Harre auf Gott」という言葉を使っています。「Harre」という言葉は、「追い求めて、追求して、捕らえよ」という意味です。神を求めて追求し、捕らえなさいという意味です。「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」。そのような試練のプロセスを通り絶望感に浸りながらも、作者は「神をほめたたえる。神は私の救いである」と歌うことができました。これが実は結論であります。これが、絶望感に浸った詩篇42篇の作者が言わんとしたポイントです。

 もし私たちが大滝のとどろきに出会い、その大波が自分の上を越えてしまうような大試練に遭遇することがあるならば、同じような賛美が口から出るでしょうか。その人はじつに幸いな人です。このテキストを注意深く読めば分かることですが、作者は自力で絶望感に勝利を収めたのではありません。彼は「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか」、と何度も歌いました。私たちは皆、立場は違いますがいろいろな形でそのような心境になることがあります。もし絶望の壁に遭遇することがあれば、一体どのようにして「絶望の壁を破る」ことができるでしょうか。人は誰一人、絶望を望む人はいません。事前に分かれば、全力をもって避けるに違いありません。しかし、人生では予期しないことが起こり避けられない出来事があります。したがって、どのように生きるべきかを学ぶことは、賢い生き方です。今日、私は次の3点から考えてみます。

大切なポイント
1. 思考の変換を行う必要性
  私が常に主張していることですが、「思い」が「行動」を生むのです。内側にある考えが、顔や言葉、そして行動に現れます。どれだけカモフラージュしたところで、それを隠すことは難しいです。人は絶望の中で、どのようにしてマインドチェンジできるでしょうか。それは、「事態を逆説的に考えること」です。「神を待ち望みなさい。神をほめたたえなさい。私の救いである神を」(11節)、と作者は歌いました。重圧や重荷から逃げないことです。いや、逃げられないような状態も私たちの人生ではあり得ます。しかし、心配しないでください。私たちが耐えられないような、そして「もう駄目だ」と思うような、私たちが絶望するような状況に置かれたとしても、逃げる必要はありません。逃げたいような気持ちになりますが、逃げる必要はありません。なぜなら、神が許されて起こる事態であるならば、何かそこに神が介入される場があるからです。

 聖書の神は、紙上に書かれた木や石に刻まれた神々ではありません。聖書の神は人間を創造された生けるお方です。旧約聖書を開くと、イスラエルの民はエジプトで長年奴隷の身であったことが分かります。彼らは虐げられ、苦しめられ、過酷な労働を強いられていました。しかし、神はイスラエルの民に、「あなたがたはこの地を出て、約束の地、祝福の地、そこは乳と蜜の流れる地と呼ばれるパレスチナの地に導かれる」、と言われました。当時の王であったパロは、奴隷を放つことを拒否しました。神は何度も何度も指導者モーセを通してパロに臨み、「イスラエルの民を釈放させなさい」と言われました。しかし、パロ王は頑固として拒否しました。その結果、災いがやってきました。それでも彼の心は、さらに頑なになりました。最後の十回目の災いが襲い、彼はわが子の命を落とし初めてギブアップしました。そして、イスラエルの民はエジプトの地から出ることができるようになりました。それが「出エジプト」です。指導者モーセによって出エジプトしたイスラエルの民は、一説によればその人数は約200万人とも言われています。彼らは、神が約束された地カナンへの旅に向かい始めました。

 ところが、黙っていなかったのはパロという王です。パロ王は軍隊を率い後方からイスラエルの民たちを追い掛け、彼らに攻撃を加えようとしました。イスラエルの民は、一生懸命歩き、走り、捕らえられないよう前に進みました。そして彼らが紅海の海に直面しました。今と違い、橋があったわけではありませんでした。対岸に渡らなければ助かりませんが、渡る方法がありませんでした。試練のただ中に立たされた指導者モーセは、逃げ道はなく絶望の壁に立たされました。民たちは、大試練の中で不安に包まれ指導者モーセに対し、強い言葉を言い始めました。その時、指導者モーセは天を見上げ手を挙げて、神に祈りを捧げました。

 「十戒」という映画は、このあたりの場面を描いています。モーセが祈ると紅海の水が真っ二つに分かれ、乾いた地が現れました。イスラエルの民は、その乾いた地を渡ることができました。正に奇跡です。追い掛けてきたパロの軍勢は、その乾いた地に入りましたが、海水が戻り海中に飲み込まれ亡くなりました。 

 ところで、このストーリーは現実でしょうか。もしこれが架空で嘘のストーリーであるなら、3500百年以上経過している今日も、なぜ、今日も語られるのでしょうか。人には信じられない、考えられないことでも、神にあっては現実に不可能はありません。ですから、私たちの思いと考え、すなわち思考を変える必要があります。私たちは「できない、という思いがあります。「不可能だ。とてもできない」という思いです。確かに常識レベルから考えたら、できないことは多々あります。絶望感に浸ることもあります。しかし、「詩篇」の作者は、同じように絶望の中を歩きました。彼は、魂の乾きを経験しました。彼は結論として、「神を待ち望みなさい。そして、神をほめたたえなさい」、と自分の魂に向かって呼び掛けているのです。簡単に言うならば、「神様を追い求めて、期待しなさい」ということです。ここに大切なポイントがあります。

 どんな立派な指導者でも、パーフェクトな人はいません。人格的に優れ、尊敬する方はいるかもしれません。しかし、完全な人は誰一人いません。そうであるならば、私たちは一体誰を追い求めるべきでしょうか。人の後に従い追い求め、つまずく場合もあります。作者は、「わがたましいよ。神を待ち望め」と言っています。期待するのは神というお方です。ここに視点、フォーカスを置く時に、モーセもそうでしたが、実は素晴らしい祝福をいただく第一歩を踏むことができるのです。

2.「絶望の中では両手を挙げよ」
  両手を挙げるとは、ギブアップすること、あきらめを意味します。日本語の表現の中では、「お手上げです」です。お手上げとは、自分の力では及ばない、どうすることもできないことを意味します。しかし聖書から見る時、手を挙げることは確かにギブアップという意味もあるかもしれませんが、全能の神に助けを求めること、神に向かい祈りの手を挙げることです。その時、人は無力で何もできなくて手は挙げられます。物理的に手を挙げることができなくても、心の手を挙げることができます。心で私たちは神に向い祈りの手を差し出すことができます。実は、そこが神と私たちとのコミュニケーションの始まりです。そこで祈りの力を体験できます。

<祈り手を挙げなさい>
  モーセは、祈りの力を体験した人です。聖書を開くと、多数の人々が祈りの力を体験し、素晴らしい人生を送ったことが分かります。イエスも、「目を覚まして、祈り続けなさい」、ゲッセマネの園で弟子たちに言われました。しかし、弟子たちは眠り込んでしまいました。イエスは、1時間でも目を覚ましていることができなかった弟子たちを見て、大変悲しまれた記事が聖書の中にあります。イエスは汗を血のしずくのように落としながら、やがて受ける十字架の受難という大試練の前で、心からの祈りをささげました。イエスは、「父よ。みこころならば、この杯を、苦しみを、わたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」、と三度祈られました。その間、弟子たちは寝入っていました。なぜでしょうか。イエスは「あなたがたは、心は燃えていても、肉体は弱いのです」、と言われました。私たちは元気で、「あれをやろう。これをやろう。大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、自分がいくら頑張っても負けてしまう弱さもあります。イエスはそのことをよくご存じで、弟子たちに言われました。

 祈りの力を経験できる人は、本当に素晴らしいことです。神を信頼する人は、絶望の中で祈りの手を挙げることができる人です。そこで、力がわいてくるのです。多くの人々は、「神は見えないから信じられない」と言います。しかし、見える神であるならば信じるに値するでしょうか。例えば、今日お集まりの方がたは健常者の方ばかりだと思いますが、仮に私たちの目が不自由であるならば、物理的には見ることができません。耳が不自由だとすると、聞こえません。もし私たちの五感で感知できるレベルの神であるならば、そのレベルです。しかし、私たちの五感が本当に不自由だったとしても、私たちにはもっと心の深い所で、神を認知できる能力が与えられています。これは素晴らしいことです。たとえ目や耳が不自由でも、あるいは思うように五感を動かすことができなくても、「神はもっと深いところにおられ、私を愛し見捨てるお方でない。」ということを感知できるのです。

 その神を知らずに絶望の壁にあたるならば、人は気落ちしギブアップしてしまうでしょう。神が人間をお造りになられた目的は、祝福することにあります。ですから私たちは思考を変える必要があります。神というお方が世界を造られ、神によってすべてのことが動いています。すなわち神はすべてに関与しておられるのです。ですから、聖書を開くと「感謝しなさい」という言葉が出てきます。それは神があらゆる分野において関与しておられるからです。祈りの手を挙げられる人は幸いです。祈りの手を神に向かい、差し出すことができる人は素晴らしいです。

 3.「絶望の中で第一歩を踏み出す秘訣はどこにあるか」
  詩篇42篇の作者は、大きな試練を通った人でした。それは絶望という試練です。「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか」、彼は2度にわたり歌いました。  
  しかしよく読むと、「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる」とあります。この言葉の背景には、神は慰めを与えるお方であることを味わう経験をしたことが分かります。彼はその幸いな経験をした人で、彼の結論でした。経験には説得力があります。とにかく自分が経験したことは、人に説くだけの力があります。借り物ではありません。聞いた話、読んだ話ではなく、自分で経験したことは非常に強いです。その意味で、彼の人生は第42篇11節に要約されているといっても過言ではないでしょう。42篇1節、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」。彼こそ魂の乾き、内側の乾きを経験した人です。この魂の乾きから絶望の境地に入り、そして結論として経験したことは次のことでした。
@「神を待ち望む」
A「神をほめたたえる」
B「神は私の救い、助けである」
  この「救い、助け」という言葉は、他の意味では祝福という意味があります。そう考えると、神は私の助けであり、私の祝福であることを経験したのです。

<ルーマニアの聖徒>
  話は変わりますが、ルーマニアにジョセフ・トンという牧師がいます。彼はオラディアにあるキリスト教大学の学長をしています。彼も大きな試練を生き抜いた神の証人のひとりです。このジョセフ・トン牧師は現在71歳、ルーマニアの迫害の時代を生きぬいた証人です。ところが彼は、71で試練、絶望、苦しみについての博士号論文にパスし、二個目のドクター称号(博士号)を手にしました。

 彼は十六歳の時に、神を信じクリスチャンになりました。当時のルーマニアはチャウセスク独裁政権下で、信仰を持つ人々に迫害の手が伸び捕らえられ投獄されていきました。聖書印刷は許されなかった時代で、極秘に印刷した者は逮捕・投獄されました。そして聖書は没収され、教会指導者たちも捕らえられ厳しい尋問を受けた時代でした。信仰に燃えたジョセフ・トン氏は、首都ブカレストのバプテスト神学校に入学しました。ところが神学校生活で、彼は自分の信仰に疑問を持ち始めました。それはキリストは真に復活されたかということです。彼は神学校に行くほどの決心をした男でしたが、無神論社会の中で学び始めると、大きな壁にあたりました。「キリストはよみがえったのではない。キリストなんかいなかった」、という話しを聞くと心が揺らぎました。結局、彼は神学校を中退し、その後9年間神学校からも教会からも離れることになりました。

<不思議な出会い>
  しかし、彼は一人の人との不思議な出会いがありました。それはユダヤ系ルーマニア人のリチャード・ウオムブラント牧師です。彼は数年前に召されましたが、ブカレストの共産党本部(内務省)前の地下十数メートルの獄に入れられた人でした。そこは政治犯用の獄で、彼は10年以上も太陽の光を一度も見なかったと証ししています。彼はユダヤ人でしたがルーテル派の牧師でしたので、二重の迫害を受けていました。リチャード・ウオムブラントは、その後出獄することができました。ジョセフ・トン氏は出獄後の彼に会い、大きなチャレンジを受けたそうです。それは「政治犯はみんなここで死んでいくんだ」、と言っていた兵士たちの言葉でした。リチャード・ウオムブラント氏は、10年間も地上へ出ることもなく、太陽光を見ていないにもかかわらず生き延びていたからでした。リチャード・ウオムブラント氏は、「神は理論の神ではなくて実在し、世界の歴史を支配しておられるお方だ」と言われました。

 この言葉を聞いた時に、ジョセフ・トン氏は「ハットした」と言います。神を否定した社会では、「神を信じるのは愚かだ」と言われていました。しかし、リチャード・ウオムブラント氏は本当に神を信仰したため、捕らえられ投獄されていたのでした。それはジョセフ・トン氏にとって、大きなチャレンジでした。彼は我に返り、「そうだ。神は本当に生きておられるのだ」、信じることができました。このことを通して、彼は信仰に返りました。彼はまた学校に戻り教師試験に合格し、教師免許証を取りました。しかし、信仰を持っている彼はすぐに免許証を取り上げられて、教師の仕事ができなくなっていました。

 1972年、彼は英国のオックスフォード大学に留学します。そして、オックスフォード大学で神学を学び、再びルーマニアに帰ってきました。彼は英国留学中、多くの生きた信仰を持ったクリスチャンに出会い、励ましをもらいました。黙っていることができなかった彼は、地下教会で極秘の伝道活動をするようになりました。当時はチャウセスク大統領が全権をふるっていた時代でしたから、それは非常にきびしいものでした。

<神のご計画>
  人は厳しい環境に置かれると、人間的にほとんど絶望するものです。光が見えないからです。全く光が見えない状態がつづくと、何年このような状況が続くのかと暗くなりやすいものです。しかし、リチャード・ウオムブラント氏は生きておられる神を獄中経験し、ジョセフ・トン氏に「神は歴史を支配しておられる神だ」と話しました。そのジョセフ・トン氏は、実際そのような地下教会を回り多くのチャレンジを受けました。そのような伝道活動の中で、彼の働きは次第に目立つようになりました。アメリカ政府は人権擁護の立場から、ジョセフ・トン氏を米国に招聘しました。このようなケースは、J.カーター大統領時代に多かったようです。1981年9月4日、彼はアメリカ・ウィートンに移住しました。すぐさまアメリカの信仰良書をルーマニア語に翻訳する作業と、短波ラジオを通しルーマニアに向けて神のメッセージを伝え始めました。

 1989年12月、チャウセスク独裁政権が崩壊して4日後、彼はアメリカからルーマニアに帰りました。そしてブカレスト市内にキリスト教出版社をつくり、ラジオ局をスタートさせ、何と7本のチャンネルでルーマニア全土に配信するようになりました。そればかりではありません。彼はその後、オラディアという所でキリスト教の大学を建てました。「教育こそ最重要である」と主張し、現在オラディア大学には5千人の神学生がいると言います。彼はオラディア大学の創設者で、「祖国を変えるために、我々はキリストの知恵、知識を必要としている。自由を用いよ。今与えられている自由は、どれだけ続くか誰も分からない」と語っています。真の苦しみを通った人は、与えられている自由のチャンスを無駄にはしません。青年たちに向かい、「もう一度あの時代に逆戻りしてはならない。あんな苦しい所に、私たちの子供や孫たちを送ってはならない」、と声を大にし叫んでいます。
 

ま と め
  私たちは「人生の壁を破る生き方」―絶望の壁を破る生き方―を学びました。
  詩篇42篇の作者は、人生で絶望的経験をしました。彼の人生の結論は、「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」(11節)でした。それは三つのポイントに要約できます。

1.「絶望的状況下でも神を待ち望むこと」―思考の変換が必要―
2.「祈りの手を挙げること」 ―試練の中でこそ祈りの手を挙げることー
3.「絶望の下で第一歩を踏み出す秘訣」―神を信頼することー

 たとえ大試練の波がやってこようとも、世界を造られた聖書の神に信頼を寄せて歩むならば、あなたは倒れることはありません。覆されることもありません。なぜなら、神があなたをしっかりと支えてくださるからです。どうぞ皆さん、この神に信頼を置き歩んでください。

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