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著者プロフィール


ライフワークの発見と実現


黒川知文

第二の奇跡―― 一橋大学博士課程合格  

 筑波大学大学院の入試は、申し込んだが、受けなかった。そして一橋大学大学院の要項を手に入れた。東京外大では学部の時にも修士の時にも東大からの何人かの非常勤の先生の講義を取って学んだ。だが、一橋大学からの先生はいなかった。一橋大学には知り合いの先生は誰もいなかった。
本の著者として、名前だけ知っている先生が数人いるだけであった。
私には一橋大学大学院修士課程に進学していた同級の友人がいたので、彼女に電話をして、博士課程の試験の内容について聞いた。それによると、試験は三人の面接官にて行われ、主に、修士論文の内容について質疑応答がなされる。そして、その後、面接官から外国語のプリントを渡され、その場でそれを辞書なしで訳すということであった。
いったいどのような内容のプリントが配られるのか? どんなロシア語なのか? 誰が私の面接官になるのか? 考えれば考えるほど不安がつのった。緊張のために試験前の数週間はさすがに食欲もなくなった。そのため体重が極度に減り、五十八キロにもなっていた。これほど痩せたことはそれまでにはなかった。
私たちが絶望の淵にある時、もっとも暗い中にある時、神様は往々にしてそのみわざをなされる。
試験日。森に囲まれた一橋大学。国立大学らしい簡素で汚れた小教室で私の面接試験が始まった。三人の教員が窓を背にして待っていた。どの顔も知らない。
最初に修士論文の要約を説明して、質疑応答が始まった。様々な観点からの質問に答えていった。右側に座っていた鋭い目をした眼鏡の教員は最後に「君の論文は、史料批判さえもっとしておけば完璧な論文です」と言われた。一抹の安堵感。
質疑がやがて終わり、語学試験になった。
コピーを一枚手渡され、「これをまず読んで、準備ができましたら訳していってください」と真ん中の教員から言われた。幸いにも、それほど難解なロシア語の文章ではなかった。胸ポケットからボールペンを取ろうとしたが胸にはなかった。そこを目敏く右側に座っていた教員が見つけて、私に歩み寄り「これをお使いください」と言って、シャープペンシルを貸してくださった。ありがたく思った。それを使って書き込みをして、何とか無難に訳することができた。
「君は博士課程にはいれば、誰を指導教官とする予定ですか?」と聞かれた。
「東欧のユダヤ史をも扱っておられる良知先生か、言語と文化の面から研究されている田中先生。あるいは民衆史という共通する研究方法を学びたいために阿部先生に指導されたいと思っています」と答えた。
「実は、君の研究を指導する教員はいないと思っていたのですが、それならよいですね」といって初めて真ん中の教員に笑みが浮かんだ。私は直感的に、合格したと思った。

  かくして面接試験は終わった。三十分前後の試験であった。後にわかったことだが、真ん中の先生はソビエト経済史の先生、左の先生はドイツ文学の先生。そして、私にペンを貸してくださった鋭い眼差しの先生は、阿部謹也先生であった。  

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