壁に出会う
私の書斎には学位記がふたつ、額縁に入れて掲げられている。エール大学と東京大学の学位記である。これを見るたびに、研究の意欲がわく。特に、東京大学の博士(文学)学位記は、一方的な神様の導きにより授与されたものである。これを見るたびに、神様の奇跡的な導きを思いおこす。
今から五年ほど前。留学から帰国して大学で教え始めていた頃、私はそれまでやっていた研究に限界を感じるようになっていた。留学したエール大学ではオーソドックスな歴史学を学び、一橋大学では、民衆に視座をおく社会史の方法を学んでいた。専門は東欧ユダヤ社会史であり、ユダヤ人への迫害について研究していた。
1989年の秋に、史学会の大会が本郷の東大において開かれていた。私はそれに参加し、記念講演に聞き入っていた。近代フランス史の研究者が、社会史的観点からブルボン王朝の特徴について分析していた。曰く、
「同王朝の宮殿の構造から、フランスにおいて国王は国民の父親としての存在であった。したがってヴァレンヌ事件により国王が国外に逃亡したことは、父親が子供を見捨てたことに等しい事件であった・・・・・・」
講演を聞いていて、このような社会史的分析にも限界を感じた。これなら何だって言えるじゃあないか。また、そのような方法でユダヤ史を研究することができるのであろうか?ユダヤ人はユダヤ教を信じている。宗教を持つ民族の歴史を扱う時、外側からだけの分析では不十分である。内側から、すなわち、思想や宗教の観点からも見ていかなければならないのでなないか?
講演が終わり、煩悶しながら歩いていた時、文学部掲示板を通り過ぎようとしていた。掲示板をふと見ると、人文学研究科博士課程の募集要項がはられていた。たちどまり、それをじっと見ることにした。
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