シュヴァイツァーに学ぶ >>シュヴァイツァーの生涯(PDFファイル)
13 アフリカでの一年目
1913年4月15日、シュヴァイツァーは夫人とともにアフリカのランバレネに到着した。この時38歳。21歳の時に見たライフワークの幻がここに実現したかに思えた。シュヴァイツァーはこの時の感慨を以下のように記した。
「最初の数週間からしてすでに、原住民のあいだの肉体的悲惨は、予測していたより小さいどころか、はるかに大きいものであることを、わたしは確認した。医者としてこの地に来るという計画を、あらゆる障害を排して実現出来た、という喜びはいかばかりのものであったろう!」
『シュヴァイツァー選集2』151頁
妻の助けと説教とパイプオルガン
だが完全にライフワークを実現していくのには、まだまだ多くの困難が彼を待っていた。多くの病人の治療と病院経営、習慣の違いなどの障害物がたちふさがっていた。このような困難は三つのことで克服されていった。
第一は、看護師である妻の助けであった。
「妻は、看護婦としての教育をつんでいたので、病院の運営におおいに役だった。重病人のせわをし、下着や包帯の管理をし、薬局ではたらき、治療器具を整理して、手術いっさいの準備をしてくれたのである。手術のときは、彼女が麻酔をうけもち、ヨーゼフが助手になった。妻が、繁雑なアフリカの家政をとりしきるかたわら、なお毎日、数時間を病院のためにさくことが出来たのは、実際、一つの功績であった。」
『シュヴァイツァー選集2』152頁
第二は、説教であった。教義上の問題で説教を禁じられていたが、パリ宣教師協会はシュヴァイツァーを理解して説教をすることを数カ月後に許した。シュヴァイツァーは説教出来ることに大きな喜びを感じた。
「説教のさいにも、わたしは大きな喜びをあじわった。イエスやパウロのことばを、いまだこれを耳にしたことのない人びとに告げられる、ということは、まさにすばらしいことだと、思われたのである」
『シュヴァイツァー選集2』155頁
第三は、パイプオルガンであった。パリ音楽協会から贈られたパイプオルガン用ペダル付きピアノに向かって、バッハのフーガを弾いていた時に、余暇を演奏の腕をみがくために利用しようと思うようになった。心沈む時にはパイプオルガンの演奏が大きな慰めになった。「いまや、約束の演奏会のために時間の制約をうけるということもなく、ゆっくりと、おちついて練習できるとは、たとえときには一日に半時間しかそれに向ける時間がないとしたところで、何と楽しいことであったろう!」
『シュヴァイツァー選集2』157頁
苦難の時の助けは、妻と説教とパイプオルガン。いいかえれば、愛する者の助けと神の言葉と神への賛美であったということができる。神に対する信仰と隣人愛―――それがどのような苦しみも克服できるものである。
(シュヴァイツァー)
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