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カルヴァンの生涯O


黒川知文

 

困難に向かって

人はしばしばふたつの道の前に立たされることがある。人生の岐路に立つ時、どの道に行くかはよくよく考え、また祈り求めなければならない。人の目に見て安易な道が、実際はそうでないことがある。逆に、困難に思える道が、実は祝福の道であることもある。

人生の岐路に立つ時、どのようにしたらよいのか?

第1に聖書にふだん以上神の導きを求めることである。聖書には基本的な生き方が書かれている。そして、特別啓示としての聖書のみことばを通して神は信仰者に働きかけられる。聖書をきめ細かく豊かに自分のものにしておくこと。よく「聖霊が私にこう語った」などと言う者があるが、多くの場合自分の願望からでたものである。聖霊が語ったことが聖書に反する場合もある。それは真の啓示ではない。聖霊はみことばにそって働かれるからである。

第2に、客観的にそれぞれの道を調べることである。自分の思い込みによって、あるいはよく調べずに、好き嫌いによって「これは神の導きではない」と断定してはいないだろうか? もしもAという道を歩むことになればどのような生活になるのか? Bの道とはどのような点において異なるのか? 福音の前進のためには、どちらが効果的なのか? 神から与えられた私の賜物はどちらの道においてより生かされるのか? 私はどちらの道を歩む時に、より生き甲斐を感じるのか? みずからに問い、客観的にきめこまかく調べることである。

第3に、これらのことを自分だけでなく、教会的交わりの中で考え、祈っていくことである。牧師や信仰の友人からのアドヴァイスも参考にしたらよいであろう。

かつて、ある牧師がこのように語っていた。

「どちらの進路をとるべきか迷っているのなら、困難な進路を取りなさい。神の導きは苦難の道であることが多い。」


決断

カルヴァンは、長らく神に祈り、友人にも相談し、みずからの思いをさぐり、最終的には、困難なジュネーブへの帰還の道を選んだ。彼はこのように述べている。

「そして今や私の望みに反して、以前の地位にふたたびつく必要が私に迫ってきたのである。この教会を救いたいという私の気持ちはひじょうに大きく、そのためには死ぬことさえいとわないほどであったが、臆病なために、こんな重荷を負わされたくはないと、さまざまな逃口上が浮かんできたのである。しかしついに義務感と信仰が勝利し、私はかつて暴力的に切離されていた羊の群のもとに帰ることになった。」(同書、372頁)

聖書に基づく教会の建設という神からの使命感が、個人的な感情に勝利したことがわかる。さらに、「私は大きな嘆きのもとに涙を流しつつ不安を抱いて帰ることにしたが、それについては神が証人であらせられる。またそのことは多くの敬虔な人びとが証言してくれよう」という内容から、祈りにより神のみそばにカルヴァンがいたこと、そして、信仰の友人の祈りの支えがあったこと、が推察される。


主の戦い

32才のカルヴァンの決断は、今後の彼の生涯を決定した。困難と苦悩の人生の階段を彼は今後、迎えることになる。しかし神の導きであったがために、カルヴァンはそれから逃げることはせずに、立ち向かっていった。「この戦いは主の戦いなり」との確信があれば、その人は必ず勝利をおさめる。神がともにおられて神が戦ってくださるからである。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。
                                     詩篇62篇2節

 

 

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