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カルヴァンの生涯25


黒川知文

 

カルヴァンの議論

カスティリヨンの『異端は迫害されるべきか』に対して、カルヴァンはセルヴェトス処刑を正当化する冊子の『スペイン人ミカエル=セルヴェトスの途方もない謬説を駁す』を1554年2月に発行した。これには、為政当局者は、神の栄光を損なう者を懲戒することは合法的であるばかりか求められてもいるという主張が述べられている。  
翌年、カルヴァンは、3月から9月にかけて申命記の説教を行ない、セルヴェトスを処刑した根拠が聖書にあることを主張した。さらに、カスティリヨンの書物はジュネーブとバーゼルにおいて発禁処分にするように画策した。  
また、弟子のデオドール=ベズに反駁書を書かせた。それが『異端は俗権によって罰せられること』であった。この書には、宗教上の分裂は、共同体の平和を損うものである故、それを制圧することは世俗の為政当局者の責任であるということが主張されている。  
カスティリヨンもまた、『異端者が剣で処罰されることが正当であることを示そうとしたカルヴァンの小冊子に抗弁す』という題のパンフレットを出版した。ここにも彼の宗教寛容の理論が展開している。すなわち、もしも宗教的寛容の精神がないと、世界中いたるところにおいて宗教戦争が起きるであろう、とカスティリヨンはこの書の中で述べている。彼のこの「預言」は、後に成就することになる。この書の最後は以下のように述べられている。  

私はあなたがたの心がどれほど頑迷で、考えを変えたり、一度下した判決を取り消したりすることをよしとしないかを知っている。それは不名誉だと案ずるからである。しかし、誤りの中に留まる方がはるかに大きな不名誉なのだ。短時間誹謗されるよりも、永遠の苦痛を耐える方がはるかに悲惨である。
(出村彰『カステリョ』清水書院、1994年、199ページ)  

権威にある者が過ちを認めることがいかにむずかしいことであるか。これは現在でもあてはまることである。よほどキリストとともに歩んでいる信仰ある権威者でない限り、自らの過ちを即座に認めることはむずかしいであろう。  
ところで、カルヴァンのセルヴェトスに対する批判は、『キリスト教綱要』にもいくつか見られる。  同書第T篇「創造主なる神を認識することについて」の第13章「聖書においては神の本質が唯一であってそれが三つの位格のうちに含まれると創造のとき以来教えられている」の22においてセルベトの誤謬の追求と題して、批判が以下のように述べられている。  

けれども、今の時代にはセルベトやその同類の狂乱者が起こって、新しい妄想のうちにすべてのものをくるみ込んでいるので、かれらの偽りごとを手みじかに打ち砕いておく必要がある…かれがののしりのために考え出したばかげた言葉…セルベトは己れの不敬虔をさらにあらわにあばき出すように仕向けられ…もっとも呪われなければならないのは、かれが神の御子と御霊とを一般の被造物の中にまじえていることである。
(『キリスト教綱要』新教出版社)  

セルヴェトスの理論を、伝統的な三位一体論から批判した文章の中に以上のような敵意に満ちたカルヴァンの言葉が使用されており、いかに感情的な論議であったかが推察できる。  
また、第四篇「神がわれわれをキリストの交わりに招き、そこにとどめおかれる外的手段ないし支えについて」第十六章「小児洗礼はキリストの制定としるしの性質とに最もよく合致する」の31においてもセルヴェトスへの批判が述べられている。この箇所では、小児洗礼の正当性が論じられており、それを認めない再洗礼派の立場にたつセルヴェトスの議論をことごとく否定して、カルヴァンは以下のように結んでいる。  

以上で、セルベトが自分の小さい弟たちである再洗礼派を助けた助けが、どんなに弱体なものであったかを、明らかにしたとわたしはたしかに確信する。(同書)  

セルヴェトスの神学が伝統的三位一体論から見れば、問題あるものであり「異端」であったこと、また、その洗礼論も当時異端視されていた再洗礼派のそれであったこと。これは認められることである。しかし、この故に、セルヴェトスが処刑されたことは、現代の観点からいって明らかに間違いであった。カスティリヨンの主張は、現代的な意味からいっても聖書に基づく正しいものであったと結論することができる。「時代の子」としてのカルヴァン像を我々はここに見ることができる。

カスティリヨンの死

カスティリヨンの書いた冊子は、刊行停止となった。「表現の自由」を奪われた彼は、その後、神秘主義へと傾斜していった。しかし、1563年、48才にして心臓病のために世を去った。死の二ヶ月前に書かれた遺書には以下のように書かれていた。  

神を信じ、畏れ、愛し、その戒めを守り、神がやもめや孤児の父であって、あなたがたを見棄てることはないと信じなさい。しかし、もしあなたがたが神を捨てるならば、神もあなたがたを捨てられるあろう。  

遺書においても、カルヴァンの予定論を否認していることがわかる。(出村、前掲書、205ページ)

 

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