「日本景教研究会」発会のご案内


HOME エッセイ アート イベント BMPとは? イーグレープ

 
日本景教研究会リストページへ 
 

季刊誌 会報 「創刊第弐号」2009,9,1

            ニュースレター№2 / 現会員数37名

 

事務局:〒486-0917 愛知県春日井市美濃町2-207-2(川口一彦氏宅) 
℡&ファクス 0568-36-1924、携帯090-3955-7955
E-Mail  hiko-630@xc4.so-net.ne.jp

 
目次
①巻頭言  
②景教とペルシア教会  
③各国で発見された景教徒のシンボルの十字
④古代日本に存在した景教への暗示:その事実に関する調査
⑤大秦景教流行中国碑を訪ねる
⑥会計報告その他
 

巻頭言

 

アジア大陸からの恩恵

片桐進(秋田放送「希望の光」ラジオ牧師)運営委員

何百年、何千年の歴史を顧みると、何が見えて来るでしょうか? 明治時代には、脱亜入欧による欧米に追い付こうという面が多かったのではないでしょうか?
ところで、長い歴史を振り返ってみると、日本はアジア大陸から多くのことを受けて来ているのですね。政治、経済、文化などあらゆる面で、私たちアジアの東にある日本は、多くの恩恵を受けてまいりました。
20世紀は欧米の時代、21世紀はアジアの時代とも言われています。日本の代表的民謡の江差追分は、源流を求めていくとハンガリーではないかとも言われ、正倉院の宝物には中近東のものが含まれています。
聖書の舞台であるイスラエル、シルクロードを通って人々の交流や物流、その中の一つに「景教」も含まれているのです。私たちは、その恩恵に感謝してどのようなご恩返しが出来るのでしょうか? 再考の時期にきています。

 

【ニュース】

①韓国の李敬云牧師(『景教』著者)がソウルで「第一回景教歴史セミナー」を開催するとのご案内を受け取りました。日時は、2009年10月20日(火)-21日(水)、会場は韓国のソウルです。詳しくは川口(☎090-3955-7955)か湯沢英房牧師(☎0759-21-6484)にお訊ね下さい。現在、旅行会社と費用など話し合っている最中です。
下の名刺は、李敬云牧師の日本語通訳者として韓国で窓口となっておられる弟子訓練センターの鄭学鳳牧師です。

                                                                  主催者の李牧師と著書 ⇒


②景教の石刻が中国洛陽で出土 2006年5月、中国洛陽市の隋唐故城東郊から出土、発見。 ⇒
名称は、「大秦景教宣元至本経」「大秦景教宣元至本経幢記」で、本碑は紀元814年/815年の唐代作。右は、その石刻碑と拓本。 『景教遺珍』(文物出版社)より転載。

 

2. 各国で発見された景教徒のシンボルの十字(川口)

右の墓石とその拓本は、中国トルファンの高昌故城で発見されました。シリア語の文字は景教徒の記念として作られました。この墓石は現在、中国泉州の海外交通史博物館で保管されています。
訳文は、「父と子と聖霊の御名によって。アレキサンダー大帝の1613年(紀元1301年「注」)12月26日、高昌城の人___が主なる神の使命を完成して、霊魂は天国の安息にある。アーメン。」(訳と注は川口)

「景教」会報誌を活用して下さい  
今日、景教遺跡の新発見があり、景教に関する新論文もあって、それらの発表の場として本誌を設けましたので、ご活用下さい。また「景教と私」とのテーマで景教から学んだことを寄稿して下さる方がいらっしゃいますなら投稿して下さい。
消息
景教研究会代表夫人の川口久美子姉(59)が7月16日に死去し天に帰りました。葬儀には運営委員の方々が参列して下さいました。

 

3. 古代日本に存在した景教への暗示:その事実に関する調査 ブラッド・フォード(運営委員)

まず、私個人の簡単な略歴から始めさせてください。私は、色々なこと、例えば、科学、古代史、 極東の文化などに興味を持つ、南カリフォルニアの家庭で育ちました。 私たちは、メキシコの古 代文明や中央アメリカに特別な興味を持ち、その中でも特にマヤ文明に興味を持っていました。 私が十代のころ、私の家族は、夏旅行としてメキシコを数回訪れました。そこで、私たちは、多く の古代遺跡を探索したり、多くのピラミッドに登ったりして楽しみました。メキシコ旅行に加え、 十代の私は、もう一つ他の事にも興味がありました。 私は、ノルウェー人の人類学者であるトール・ ヘィエルダール氏の理論と旅行記に魅せられていました。それは、彼がコンティキ号とラー号とい う名のいかだに乗って、太平洋と大西洋を横断移動する古代人に関する理論、それはあまり支持さ れていないのですが、その理論を具体的に論証する有名な旅行記でした。

私は大学生の時、クリスチャンになりました。その時、過去も現在の時代も、キリスト教がどのようにして世界中に広まったのか興味を持つようになりました。このことが、キリスト教宣教に私を導き、実際、いくつかの教会で英語を教える短期宣教師として日本に来ることになりました。私は、フルタイムの宣教師として神からの召しを感じませんでしたが、高校で英語を教える仕事が見つかり、日本に戻ってくることになりました。私たちのすべてがフルタイム宣教師として神からの召しがあるとは思いませんが、私たちすべてはフルタイムのクリスチャンとして、つまり与えられた賜物に従ってキリストの体(教会)に積極的にかかわるようにと、神に召されていると信じています。 私は、大阪インターナショナル教会で色々な奉仕に積極的関わっています。

私が、古代日本にキリスト教が伝来し、日本に伝播したということを初めて聞いたとき、日本に住んで10年が経過していました。私が耳にしたことは、詳細で、独特な主張でしたので、私は驚きました。 歴史好きの私ですから、これらの報告を以前にも聞いていて、しかるべきだと思ったのです。また、それらの報告が詳細で独特な主張であるからには、裏づけされた確固たる証拠があると期待していました。例えば、日本の古代史の中でキリスト教が言及されているとか、あるいは古代日本から年代の分かるキリスト教遺物などの証拠です。私は、中国の唐やモンゴル帝国に景教が存在していたことは知っていました。 しかし、古代日本のキリスト教徒については聞いたことがありませんでした。私は、この話に懐疑的でもあり、また同時に古代日本におけるキリスト教の可能性に対しても好奇心をそそられました。ヘィエルダール氏へのあまり支持されていない古代人の移住理論への若いころの興味が、私たちが想像する以上に古代人は長距離移住が可能であると、私の心を開かせたのです。

景教と古代日本に関する私の最初の調査は、私に主たる歴史書が話題に対してまったく口を閉ざしていることを示しました。しかしながら、私はある重要なことを学びました。 この話題に関して友人と論じる時、私はいつもこの言葉から始めます。キリスト教が中国の唐で活発であったということは、確定した歴史的事実です。そして唐の時代に、日本は中国の唐から多くの文化を導入していました。 歴史的文脈はキリスト教がその当時日本にやってきた可能性を提示していることは確かです。その扉は広く開けられていました。

しかし、はたして古代日本にクリスチャンたちが来たのだろうか?このことに関する証拠は何だろうか?その証拠はどれほど強いのだろうか? その主張は真実の証拠によって裏打ちされるのか、あるいはいわゆる証拠と呼ばれるもので間違いを引き起こしているのではないか?私は、多くの主張が強く詳細に亘っていることに驚きました。『続日本紀』は、李密醫という名のペルシャ人医師であり宣教師の訪問を記録しているだろうか?『続日本紀』は天平8年に「景人」が来たと言っているのだろうか? 空海(真言宗の開祖)は中国で景教の宣教師に会ったのだろうか? また、親鸞(浄土真宗の開祖)は景教の経典を本当に毎朝勉強したのだろうか? 古代日本からあるキリスト教遺物と言われているものは何だろうか? 私はこれらのことを読んだが、それらがどれほど真実かどうかを疑わざるを得なかったのです。これらの主張の背後にある事実は何であろうか? もし、その主張が文字通り真実なら、なぜ主流である歴史本にこれらの所説がないのだろうか? もし古代日本からある本物のキリスト教遺物が存在するなら、あるいはもし『続日本紀』の中でクリスチャンたちについて語られているなら、歴史家たちがそのような具体的な証拠を見逃すはずがないのではないだろうか。

私が景教を調査して発見したことは、景教が古代日本に来たかもしれないが、古代の歴史的記録にクリスチャンたちに対する確固たる言及がない、といういくつかの興味そそられる暗示でした。私は、李密醫 という名のペルシャ人が医師であったかもしれない、また景教の宣教師であったかもしれないという佐伯好朗博士の理論に魅せられました。 このペルシャ人は、天平8年11月に聖武天皇に謁見したことが『続日本紀』に記録されています。佐伯博士は、李密醫という名の三番目の漢字は「薬」という意味であり、最初の2つの漢字の中国読みは「リミ」であると指摘しました。もし我々がこの2つの漢字を反対に読むなら「ミリ」となり、そうすると中国景教碑にある(その人の名はミリス)景教宣教師の一人の名前に似ているという考えを佐伯博士は出しました。恐らく、これらの二人は同一人物であろう、と佐伯博士の控えめな提案です(The Nestorian Monument in China; Society for Promoting Christian Knowledge, London, 1916)。しかしながら、これは理論であって証明された事実ではありません。そしてさらに古い『続日本紀』の写本には彼の名前の三番目の漢字は異なる字が使われています。李密翳です。ペルシャ人医師であり宣教師であるという、この話を私が初めて聞いた時、その話が確かな事実として提供されました。しかし、私たちはそれは単に興味深いが可能性であることを覚えていなければなりません。私は反対理論を言っているのではありませんが、歴史的事実は正確に語られるべきだと願っています。

私の読んだ書物の多くは英語です。これらの一つは、李密翳 と一緒にいた人物の名前は皇甫といい、中国景教の高位の一員であったと述べられています。しかしながら、私が出版されている『続日本紀』(漢文)を見た時、皇甫は「唐人」と呼ばれており、彼は政府の高位のひとりであり、教会の高位ではなかったのです。 皇甫あるいは 李密翳のどちらに関しても宗教は語られていません。

英語で書かれた他の書物は、「three Keijin」(景人三人)は『続日本紀』で語られています。しかし、私は、これ(天平8年8月、「唐人三人」と呼ばれる人々について)に関する証拠は何も見出せませんでした。私は、『続日本紀』を印刷した出版物を約30冊(2冊の手書き写本の写真も含む)を見ましたが、「景人」は語られていません。 これらの出版物にある脚注は、いくつかの写本には李密翳 (李密醫)に異なる読み方を与えていますが、唐人に関する異なる読み方をしているものはありません。私が読んだ『続日本紀』に、「8月」が抜けているもの、「唐人三人」が7月の項目の下に言及されているものがあります。

しかし、私は佐伯博士の本「景教碑文研究」(侍漏書院、1911) の中におかしな文を発見しました。彼の『続日本紀』の引用の中に、天平8年11月、「景人皇甫東朝」という語句が現れていました。ところが、佐伯博士は李密醫 について彼の理論に関する概略を述べる時、その景人については何もコメントを述べていません。もし「景人」が真に『続日本紀』に書かれており、佐伯博士の主張する理論が強められるはずのものなので、説明が無いことは不思議です。 もし『続日本紀』がこの言葉を含んでいるなら、佐伯博士は、そのことにコメントをしたはずです。彼が景人についてのコメントをしないので、『続日本紀』に、この言葉が含まれていないことを示唆することになります。また、彼の引用した箇所の中の言葉が間違いであることを示唆しています。佐伯博士が1916年にこの本の英語版を出版した時、『続日本紀』の引用は、 皇甫という中国人である、そして7月(8月)に来た他の3人も中国人として言及されています。 1916年の本には、景人については述べられていません。私は、佐伯博士が「景人」が間違いであることに気が付いたと推測します。

私は調査の当初から、次の原則によって導かれてきました。もし古代日本における歴史的記録の中に明確で、具体的な景教徒たちがいるなら、歴史はそれを見逃すことはなかったでしょう。私は、自分の調査から、古代記録に景教徒に関する陳述も証明もまったく出来ませんでした。古代日本に景教徒が来たかもしれない(秦氏についての理論など)という好奇心をそそられる暗示はいくつもあります。しかし歴史的記録にそれを明確に語っているものはありません。我々が古代日本に存在したクリスチャンについての理論をはっきり示す時、我々は歴史的事実を正確に述べることを、私は望んでいます。

空海が長安に住んでいた時、彼が景教宣教師に出会ったかもしれないという考えがあります。そう語っている古代記録を私は見つけていませんが、私は、これはありえる考えだと信じています。
親鸞が景教経典を学んだという考えに関しては、これは間違いだと思われます。私は、空海と親鸞について、将来の論文で論議するつもりです。
クリスチャン遺物についてはどうでしょうか?古代日本の年代が明確に分かるクリスチャン遺物があるでしょうか?将来、クリスチャン遺物について私の調査を掲載するつもりです。
(英文が必要な方はお申し出ください)


景教書籍を宣伝して下さい!
「景教」2500円(イーグレープ)
「景教のたどった道」1500円(著者出版)
「景教マグカップ」1500円
申込は、川口まで(送料は無料です)

 

4. 「大秦景教流行中国碑」を訪ねる 湯沢英房(景教会会員)

これまで中国の西安、北京そして日本の高野山と京都大学に景教碑を見学する機会を得たので紹介します。

1.中国西安の景教碑(本物)
西暦781年に西安(当時長安)の義寧坊の大秦寺に建てられましたが、845年の破仏の際、地下に埋没され、1623年(又は1625年)に西安の寺の境内から偶然発見され、現在西安碑林博物館に納められました。北京房山区の三盆山十字寺会堂跡にも残されている複製の景教碑があります。
その後、更に複製が世界各地に寄贈されたようで、日本には京都大学の博物館で見ることができます。


2.高野山の景教碑(複製)
高野山を開山した空海(弘法大師)が西暦804年に唐の長安に留学しました。そこで、当時活躍していた景教(キリスト教)に触れたと想像する人たちも多くいます。その中に東洋の宗教に興味を持っていた英国のエリザベス・ゴードン夫人がいます。彼女は、高野山(真言宗)と景教のつながりを信じて1911年に複製の碑を寄贈しました。高野山に行かれた折には、ぜひご覧ください。
また、日本を愛して亡くなったゴードン夫人の墓が碑の横にあます。


3.京都大学総合博物館の景教碑(複製)
一階の広いホールの奥に建てられています。写真撮影が許可されず、スケッチで示します。碑にある案内文には次のように書かれています。
『The Monument of the Nestorian Christianity in China (replica) 景教は唐代に盛行したネストリウス派キリスト教の漢名である。本碑は781年長安義寧坊の大秦寺に建立され、景教の教義、歴史を漢字、シリア文字で刻している。1907年に本碑が西安碑林に移された際に、複製が世界各地に寄贈されたが本複製は、日本に将来された二点のうちの一つである。』
この博物館は、誰でも見学できますので一度出かけてください。


4.「日本景教資料館」設立に向けて
景教碑の等身大の複製を購入し、関係する資料と共に展示して、多くの方々に見ていただける資料館の建設を計画しています。購入費や輸送費など含めると300万円ほど掛かります。愛知県に設立の予定ですが、大陸を東回りでシルクロードを経てキリスト教が日本に伝えられた源流を間近に見学することができるなら素晴らしいことであります。

 

 


Copyright (C) 2004 e-grape Co.LTD. All Rights Reserved. イーグレープトップ
POWERED BY E-Grape