3.現代に見る神の事業の実例
(2)石井十次
石井十次(1865-1914)は、慶応元年、宮崎県児湯郡にて生まれ、15〜17歳までは、開墾事業、小学校教師、警官などの職に赴き、自らが良いと思うことは即座に行動に移すものの、周囲を省みることに欠け、性格上やや猪突猛進的なところがあったと言われています。
また、20歳の頃は人助けをするものの岡山において借金生活が続き、自分でそれを返済することができずに苦労し続け、かわりに妻の品子が働いて返済したことがあり、経済力はあまりなかったように思われます。
しかし、そのような中で十次は岡山のキリスト教会に導かれ、聖書の神を信じ、19歳の時に洗礼を受け、クリスチャンになりました。
そして22歳の時、岡山県和久郡大宮村上阿知の小寺にて貧しい親子と出会い、母親の切願を受け、8歳のひとりの男の子を引き取りました。
当時は親を失った孤児の多い時代でしたから、ひとりの男児を引き取った十次の心の中には「孤児院」開設が描かれ、隣人愛を説くキリストの教えに従い、同年、さらに二人の子供を引き取りました。そして孤児たちの救済・自立支援を目的とした孤児院開設を決意しました。
このころ、すでにイギリスにおいて二千人の孤児たちを救済・保護してきたジョージ・ミューラー牧師の講演記録に触れ、神の事業のモデルケースを学んだものと思われます。
そして、24歳のある日の朝、祈りをささげていた十次に聖霊が働き、「神様、私は孤児たちのために、この生涯をささげます。」と祈って立ち上がり、それまで孤児救済とは別に、医学の道も捨て切れなかった心に、新たな決心と神への献身が生まれました。
孤児院の経営は、寄付金、会員会費の募集を行い、有志の方々の善意によって支えられていました。預かった子供の数は、やがて16人、30人、40人と増えていきましたが、当然のように経費は掛かり、資金繰りは困難なものとなって行きました。
この頃、神様は十次の信仰と孤児院を支えました。その出来事は、BMP今までの記事Back Number!の「福祉事業のパイオニア 石井十次」(http://www.bmp.jp/ishii/01.htm)に詳述していますのでご覧下さい。
やがて十次が25歳から29歳の期間、孤児たちの自立・独立支援のため、院内で実習教育を始め、活版部、米つき部、機械部、理髪部、麦稈部(麦藁帽子・紐の作製)、マッチ部、製本部、製延部、大工部など、将来の職業準備のための教室を次々と開設し、設備も充実させていきました。
このころ、子供の数は100人から150人に増え、明治24年10月には濃尾大震災が発生し、救世軍の山室軍平と協力し、さらに約100名の孤児たちを迎え入れ、名古屋には新たに震災孤児院を開設し、孤児たちを収容しました。
また、寄付金の募集と福音伝道のために吹奏楽の音楽隊を結成し、全国各地に赴き、ハワイにまで出向きました。
明治39年秋には、東北地方が大凶作となり、多くの子供が売られ、捨てられていくことが新聞などで報道されました。十次は三、四人の職員と共に翌年1月に東北へ向かい、実状を視察し、救済事務所を設置し、職員を残して、受け入れ準備のために岡山へ帰り、3月には242名、4月には259名、5月には272名の孤児たちを迎え入れ、それまでの院の子供を合わせて合計1200名になりました。
この時、次々と送られてくる子供の数を知った十次は、経済的な限界を感じ4月の時点で、「もう無理だ」と思いました。しかし、夢の中で子供たちを無制限に受け入れられるキリストに出会い、自分の神様への不信仰を悔い改め、急遽、多くの孤児たちを迎え入れるために、宿舎建設、医者・看護婦・付添い人の増員に着手しました。するとその直後に、英国、米国、日本各地、外人救済会などから多額の献金、寄付金が送られ、1200名の子供たちを受け入れるに必要な資金を得ました。
その後、孤児院を岡山県から十次の郷里、宮崎県の茶臼原に移し、引き続き、孤児たちの養育に努めました。
石井十次は、貧困に苦しむ孤児たちを救い出すため、またその孤児たちを自立させるために、そして何よりもキリストがあがめられ人々が救われるため、次々と斬新な企画を立て、震災や飢饉の時には機敏に対策手段を講じ、いつも人材を上手く活用しました。
今日のような福祉制度がまだ無かった時代、多くの孤児たちを救い、自立支援の道を開き、多くの人々に感化を与えるため、神様は、かつて失敗を繰り返した青年を選び、彼の経済力、彼の想像を超えた働きをさせました。
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