18、徳の涵養
18−6 自制による栄冠
枢要徳四つのうちの一つに自制(節制)がある。自制は御霊の実の一つでもある。自制は禁欲主義とは異なる。
禁欲主義は、性や隣人や世界から自分を隔離し、欲望を抑えるものである。自制はこれらの必要を認め、節度をもって接触もする。自制は、必要の範囲で行動し、かつ過度にならないように自己をコントロールすることである。
禁欲主義は、禁欲することが目的となっている。しかし、自制は自分を制御することは目的ではなく、手段である。自制の目的は、真により良い生活をすることであり、自制はそのための手段であり、過程である。
真により良い生活とは、個人的には神との関係を堅密にするための行動であり、社会的には隣人を喜ばせたり神の栄光を現わす活動をすることである。
自制は、この真により良い生活をすることのために、不必要なことは行わない。やらなくてよいことはしない。しなくても支障をきたさないようなことはしない。例えば喫煙とか、飲酒とか、賭け事とか宴楽、欲望をかきたてるようなものの観賞や参加などである。時間や金銭を無駄に使うようなこともしない。長期で高額な娯楽を避け、安楽の中に安住しない。
自制はまた、真により良い生活をするために、自分を鍛練する。スポーツ選手が目標到達のために練習を続けるとか、企業戦士が学習を怠らず、技能を磨くようにである。
聖書でも、自制によってより良い生活をするために、自分を訓練することを、次のように勧めている。「すべて競技する者は、何ごとにも節制する、(しなくてもよいことはせず、どうしてもしなければならないことに時間と精力を集中する)。彼ら(競技者)は、(月桂樹栄冠のような)朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは(神から与えられる)朽ちない冠を得るためにそう(自制)するのである」(Tコリント九25)。同じようなことを、パウロは弟子のテモテに宛てた手紙で、次のように言っている。「兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官(召して下さった神)を喜ばせようと(ただそのことに一心に)努める。また、競技をするにしても、(自分勝手なことをするのではなく、定められた)規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない」(Uテモテ二4〜5)。
自制を続けてきたパウロは晩年になって顧みて言う、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう」(Uテモテ四7〜8)。
自制・節制という徳を身につけ、真により良い生活を自分のものとし、生涯の終りに神から栄冠をいただく者になりたい。
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