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著者プロフィール


クリスチャンと人生


中島 總一郎


7、導きによる前進、戦い


7-1 生かされる土の器

  「神の恵みによる事業達成」(2-2)のところで、神の栄光を現わし、神が崇められるために、自分が現われてはならない、人々からの称讃を自分にではなく、神に向けさせなければならないと言った。
  だから事を成すキリスト者は、自分が取るに足りない塵灰に等しい者であることを自覚することを喜ぶ。自分は無価値な土の器に過ぎないことを喜ぶ。
  なぜなら、自分が土の器に過ぎないと神の前に遜る者にこそ、その器の中に神の霊という宝をなみなみと満たして下さるからである。自分は土の器にすぎなくても、その中に注がれた神の宝が事を成して下さるからである。
  コリントに住む人々へ、パウロはマケドニアから手紙を書いて言っている、「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その宝から出てくる測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(Uコリント四7)と。
  そしてこの土の器に満たして下さる神の宝とは、「キリストの顔に輝く神の栄光の知識である」(Uコリント四6)と言っている。
  そういうわけで、福音に仕え、自分の使命を達成しようと願うキリスト者は、自分が土の器に過ぎないと見られることを喜ぶ。自分が無価値な土の器に過ぎないときにこそ、そこに注がれた神の宝が働いて、どんな困難、難題にもかかわらず、喜びのうちに成し遂げることができることを知っているからである。自分の働きを通して、自分は隠され、神の栄光が現われて欲しいと望むからである。
  本物のキリスト者が持つ平安と喜びは、自分は脆い土の器に過ぎないけれども、いつも自分は神の恩寵によって生かされている幸いな者であるとの確信である。

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