「どんなことにもくよくよするな!」
(問題がなければ問題だ!)K
神の永遠の腕
それではどうしたらいいのでしょうか?まず、静まることです。静まること、大事ですよ。私たちは問題が起きると、「わぁっ!」と騒いでしまうんです。でも騒げば騒ぐほど混乱しますから、よけい解決できなくなってしまいます。その時に、心から静まる、時を待つ。そして、全能の愛の神がいることを思い起すんです。聖書を読んで祈る。そうすると、聖書の言葉に出てくる、「神の永遠の腕(かいな・うで)が、私たちの下に置かれている、すなわち私たちの人生の下に置かれている」ということに気がつくのです。
ある時、裁判をやりました。こちら側がクリスチャンの借地人で、相手方が地主さんでした。法律的には、勝てると思って、裁判を始めました。もう勝ち目がないから辞めると、向こうの弁護士は辞任してしまいました。ところが、途中で裁判官が代わったのです。そうしたら形勢がコロッと変わった。
私たちは裁判官に呼び出されて、「あなたがたは何をやっているんだ。地主さんは、いわばお釈迦さまだ。借地人は孫悟空だよ。孫悟空がいくらいばっても、お釈迦さまの手のひらの上をぐるぐる飛んでいるだけだ。その孫悟空がお釈迦さまに楯を突くとは何事だ!」。「いや、裁判長!ここは裁判所ですよ、法律論でやってください。仏教のお寺じゃないんですから」と言ったんですけれども、だめでした。もう完全敗訴でした。信じられなかったですね、あの判決は。
仏教徒からすると、お釈迦さま、孫悟空、これは分かりやすいですよね。「聖書には、神の御手が私たちの人生の下に置かれていると書かれている。私たちは神の御手の上で生活しているんだから大丈夫だよ。どんなことがあったって大丈夫だよ」。あの裁判官がクリスチャンだったら、そういう言い方をしたと思うのです。でも、地裁では負けましたけれども、高裁でひっくり返りましたので、逆転勝利です(笑)。
そんな仏教理論は通らないですよね、裁判ではですね。そもそも、お釈迦さまとイエスさまでは格が違いますよ。お釈迦さまがどんなに偉いと言っても被造物たる人間の一人にすぎないのです。後で説明しますが、聖書によると、イエスさまは、唯一絶対永遠無限全知全能の神たる造物主であられるわけですから、まったく比較にならない。
心が静まってくると、問題の核心が見えてくるのです。「あっ、神の御手の中で、これは起こっているんだ。だから大丈夫だ!」。そうすると、複雑な問題が単純に見えてくるのです。これはすばらしいですよ。でも、何が単純かと言ったら、一番単純なのはこれなんですよね。「神は愛である」。神は偉大な愛のお方ですよ。途方もなくすごい愛のお方。
それから、正義です。「神は正義である」。これだけ秩序正しく、すべてのものを造られている、それを取り仕切っている存在、すなわち神は正義です。でも、もし神が偉大であり、正しい方であるだけでしたら、大変ですよ。もう畏れ多くてね、とても近づけない。滅ぼされてしまいますね、私たち、罪だらけですから。
でも、神は愛である。しかも、愛こそが、神の一番大切なご性質なのです。
「愛がなければいっさいは空しい」
とまで書いてあるんですからね。「どんな偉大だってだめだよ。あなたにどんなに能力があったってだめだよ、愛がなければ」。それから、「あなたがどんな正しい生活をしたってだめだよ。どんなに立派で、尊敬されて、正しい生活をしたって、あなたに愛がなければ、すべて空しいんだよ」ということです。世界中の富を手にしても、世界最高の権力の座についても、愛がなければむなしいものです。
お釈迦さまは、「悟り」を開いて死んでいったが、イエスは、私たちを罪の永遠の滅びから救うために、私たちの身代わりとして、自ら進んで十字架に架かり、むごたらしく殺されました。これに勝る愛はありません。イエスこそは、まさに「愛の権化」なのです。
「神は愛である」
これが、すべての問題を解決する、単純明快な秘訣なのです。なぜならば、「愛には恐れがない」ですから。恐れがないということはいいですよね。堂々と、勇気をもって、問題に取り組んでいくことができる。
そうすると、どういうことになるか。「問題が問題でなくなる」のです。
「問題が問題でなくなる」
いい言葉ですね。これも私が作った名言です(笑)。「ああ、問題だ、問題だ。大変だ、大変だ。苦しい、苦しい」。しかし、本当に神の愛で生かされてくると、「愛の神がいるんだ。だから現状はどうでもいいや。大丈夫だ。何とかなる。しかも、これは益になるんだ。ちょっと苦しいけど、逃げないで取り組んでやってみよう」という力が湧き起こってくるんですね。その中で、神の知恵も与えられる。神の力も与えられる。また、状況も、そういう方向に変化していく。「神は愛である」。私たちはその愛をいくらでも受けることができるのです。
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