1. 雲海の彼方に
冬の凍てつく夜空に、星の光と見紛うばかりの小さなライトを点滅させながら、夜行便のジェット機が、果てしない暗闇の中に消えて行く・・・・・・。
そのかすかな光跡をただぼんやりと眺めていると、二十五年前の懐かしい記憶が私の脳裏に蘇ってきた・・・・・・
二月とはいえ、赤道直下に位置するシンガポールは常夏だ。この地特有のスコールが去った後の夜はまさに蒸し風呂のようで、すこぶる寝苦しい。時計の針は既に十一時をまわっていた。明日は恒例のゴルフコンペだ。
私は、グラスの底に僅かに残ったブランデーの水割りを一気に飲み干した。白い天井でゆっくりと回転する大きなファンにじっと目をやりながらいつものように眠りについた。
まだまどろみの中にいた時、突然、電話のベルがけたたましく鳴り響いた。ふと、何か不吉な予感が私を襲った。急いで受話器を取った妻の様子がいつもと少し違う。
「ハイ、ハイ、ハイ・・・・・・」
と、返事を繰り返す妻の声が、押し殺すように重く沈んでいるのだ。そして、
「貴方、日本のお母さんから電話です・・・・・・」
妻は、ただそれだけを言って私に受話器を手渡した。私の不案は一層募った。
「もしもし、母さん、僕だ。こんなに遅い時間にどうしたんだい?」
「ああ、幸夫。あのね、お婆ちゃんが死んだの、さっき・・・・・・」
「えっ、ホント?」
私の不吉な予感が的中してしまった。私は、一瞬、愕然として、受話器を持つ手が震えて止まらず、言葉が次いで出てこなかった。
それは、家で寝たきりの認知症の祖母が、九十四歳で亡くなったという悲しい知らせであった。だがなぜか、電話の向こうから話しかけてくる母の声には、実の母が亡くなったという悲しみが少しも感じ取れない。
声を詰まらせている私に、
「幸夫、そんなに悲しむことなんかないんだよ・・・・・・。お婆ちゃんはね、大往生なんだから・・・・・・。もう、十分に生きたんだからね!」
と、母はまるで自分に言い聞かせるかのようにゆっくりと話した。傍らで心配そうに聞き入る妻の目からぼうだの涙がこぼれていた。
肉親の死に目に会えないのが海外駐在員の宿命だ、と聞いてはいたが、まさか現実のことになるとは夢にも思わなかった。
だが、問題はそれにとどまらなかった。急いで帰国し、せめて亡骸に別れをしたいと思い立ったのだが、母の口から葬儀の日取りを聞いた途端、私は当惑してしまった。
明日が通夜、明後日が告別式だと言う。逆算すると、明日の深夜便に乗らねば告別式には到底間に合わない。時間が僅かしか無い。一方で、出発までにすべきことは多い。しかも、悪いことに明日は土曜日でシンガポールの会社おしなべて休みだ。
普段頼りにしている秘書のジョアンナがいなければ、航空券の手配はおぼつかない。どうしたものか、と途方に暮れてしまった。
しかし、私は、気を取り直して、翌朝、取りあえずジョアンナに電話をすることにした。
彼女は事情をよく理解し、協力を惜しまないと言ってくれた。私はほっと胸を撫で下ろした。
数時間後、ジョアンナからN航空の夜行便のファーストクラスに空席があったので取りあえず一シート確保した、との嬉しい連絡が入った。
さて、私がほっとしたのも束の間、肝心のパスポートが手元に無いことに気が付いたのだ。一生懸命に記憶をたどってみるのだがパスポートの在りかが、一向に思い出せない。
常夏のシンガポールの日中の気温は三十度を超す。私の焦りは頂点に達し、額から汗がしたたり落ちてきた。もしや、と再びジョアンナに電話をすると、思いもかけない答えが返ってきた。
パスポートはインドネシア大使館にあるというのだ。私はすっかり忘れていた。翌週のインドネシア出張に備えて、パスポートをビザ申請のために、大使館に提出していたのであった。インドネシア大使館は、土曜は休館だ。一瞬、私の頭からさーっ、と血が引いていった。
パスポートが無くては、帰国出来ないではないか。万事休すだ。
どうしても諦めきれない私は、
「ジョアンナ、頼む、なんとかならないだろうか? 私は、祖母に会いたい! お願いだ!」
「ミスター、・・・・タカハシ、分かりました。なんとかしてみましょう」という心強い返事に、私は、思わず電話の向こうの、姿の見えない彼女に向かって心の中で手を合わせていた。
電話を切った私は、一刻千金の思いで旅支度を調え始めた。が、その時、再び予期せぬ新たな問題に直面することになった。
常夏のシンガポールでは、冬服は無用の長物だ。私は、真冬の日本で着る服を持っていなかったのである。泣きっ面に蜂とは、まさにこのことだとつくづく思った。
急ぎ、デパートに車を走らせて事なきを得たのだが、パスポートの知らせを待つ間、私は、まさに薄氷を踏む思いであった。しかし、私の思いとは裏腹に、時間は無情にも過ぎていった。
祈るような気持ちで時計にじっと目をやっていると、電話が鳴った。ジョアンナであった。
パスポートは、無事に戻って手元にあるので、もう心配はない、という知らせであった。
私は、胸を撫で下ろし、彼女の協力に感謝した。
その夜、私は、漸く機上の人となった。生まれて初めて座るファーストクラスのシートに身を深く沈めながら、慌ただしかった一日の出来事に思いを巡らせていた。
疲れている体にウイスキーの水割りは利いた。瞬く間に、夢心地になった私の脳裏には、亡くなった祖母の在りし日の面影が走馬燈のように浮かんできた。
祖母は、宮城県の石巻の出身で、非常に気丈夫な人であった。よく私たち孫を東北弁で叱りとばしていたものだ。とはいえ、私には滅法優しい人で、猫かわいがりをしてくれた。私は、いわゆるお婆ちゃん子だったのである。
祖母が漬けてくれたお新香は格別に旨かった。皺だらけの小さな手で壺のような瓶に糠床を作り、毎日、糠味噌付けの仕込みに余念がなかった。毎朝、毎晩、一夜漬けや古漬けのキュウリ、ナスが、とっかえひっかえ、卓袱台の上に盛られた。
また、祖母は私の顔を見ると、
「幸夫、肩が凝って仕方がないよー。辛くて辛くて、はー!」
と嘆いていたものである。私は、その度に祖母のやせた背中に回って小さな肩を叩いたり揉んだりした。
「もう良いよ。んだども、幸夫は肩もみが上手だな。ああ、気持ちが良いよ・・・・・・」
と言われるまで、指が疲れるのも忘れて夢中になって叩き、揉みほぐした。祖母の喜ぶ顔を見るのが私には何よりも嬉しかった。
私が結婚して初めての子供が妻に宿った頃、私の両親が、葛飾柴又の老舗の料亭で祖母の米寿の祝いをした。その時、祖母は、小さな体を赤いちゃんちゃんこに身を包みながら、大勢の孫や子供に囲まれてニコニコと、こぼれんばかりの笑みを浮かべていた。
そんな元気な祖母も数年後には、認知症が始まり、記憶にかげりが見えてきた。肉親の顔すらはっきりと認知出来ないということは、寂しく悲しいことだった。
私が、シンガポールに出発する前夜、
「お婆ちゃん、幸夫だ。行ってくるからね・・・・・・」
「幸夫?幸夫かい・・・・・・」
と、じーっと私の顔を見つめながら、不思議そうな表情を見せていた。あの時、祖母は私のことが分かっていたのであろうか――――――
私は、定まらぬ視線を、ジェット気流に運ばれて行く果てしのない雲海に向けながら、祖母の思い出に浸っていた。
やがて、機内に朝食のサービスが始まる頃、窓外に広がる雲海の遙か彼方の水平線から、真紅の朝日がゆっくりと昇ってきた。
その朝日は実に神々しく神秘的であった。
朝日が雲海の彼方に浮かび上がった時、ジェット機は着陸態勢に入り、機首を下げて機体は厚い雲海の中に突入していった。着陸は、空の旅ではもっとも緊張する瞬間だ。
六時間半に及ぶ夜間飛行は、あっという間に終わりを迎え、朝日に輝く銀色の機体は寒風吹きすさぶ成田空港に着陸した。
空港のロビーで飛び交う日本語を耳にした時、紛れもなくここは祖母の亡骸が私を待っている祖国日本だ、と実感したのである。
オーバーコートの襟を立てながら足早にタクシーに飛び乗った瞬間、メガネのレンズが真っ白に曇った――――――。
一時間後、私は、まだ朝靄の煙る懐かしい我が家の前に立っていた。そこには、玄関に飾られた花輪の前で呆然と佇む私が居たのだ。
母と言葉を交わした時、私は、悲しい現実の世界に無理矢理引き戻されていた。
top