雲海の彼方 作高橋幸夫

 


目次

1.雲海の彼方に
2.父の投網漁
3.初産
4.熱帯雨林とジャワコーヒー
5.星の瞬く大地に
6.自然児のように
7.父の十八番の黒田節
8.団塊のかけら
9.泥付き大根
10.天国の義母への詫び状
11.双子座流星群と子犬
12.忘れかけていた風景
13.YA,KU,SO,KU
14.謝辞と私の近況

 

 著者
高橋幸夫
 プロフィール


6.自然児のように

 あれは確か、二十三年前の正月。門松がとれた頃だった。
「おーい、お風呂のお湯がないぞー!」
  入浴しようとした父が震えるような声で怒鳴っていた。
  何事か、と妻が様子を見に風呂場に飛んで行った。
「えーっ、どうしたんですか?」
「いやあー、お風呂の栓が抜けていてお湯が全然無いんだよ!」
「あらー、ケンちゃんだわ。何てことを・・・・・・。 お父さん、もー、すみません、本当に!」
  習慣の違いというものは恐ろしいものだ。これは、私たち家族が、常夏のシンガポールールでの五年に及ぶ生活を終えて、真冬の日本に帰国した直後の出来事である。
  気候、風土のまったく異なる生活環境で育った我が子の奇行。それを父に理解してもらうには、多少の時間が必要であった。
  ことほど左様に、帰国直後、我が家で子供たちが引き起こした珍事件には、枚挙にいとまがなかった。
  帰国当日、私たちが実家に帰ってきた日のことだ。父母が大騒ぎであった。
「おい、こらこら、幸太郎、靴を履いたままで家に上がっちゃダメ! ダメだよ!」
「幸ちゃん、お爺ちゃんの言う通りに靴を脱いで頂戴、ねっ、お願い!」
  だが、叱られた当の本人は、何が何だかさっぱり分からない。キョトンとして、一向に靴を脱ごうとしないのだ。私たち夫婦も、我が子写真の突然の行動に戸惑い、一瞬、開いた口がふさがらなかった。
  また、雪の降りしきる凍てつく朝には、
「お婆ちゃん、顔が痛いよー!」
「どうしたの、ゆりちゃん?」
  無理もない。長女は、物心ついてから寒さを経験したことが無く、「寒い」という言葉を知らなかったのである。幼児期に体験した冬の寒さをすっかり忘れていた。
  こんなカルチャーショックを抱えながら、三人の子供たちのちょっと奇妙だが、笑うに笑えない帰国子女としての生活が始まったのだ。

写真 今を去る二十九年前の十月、妻が、長男長女を両手に引き、次男を背中におんぶしながらシンガポール国際空港に降り立った。妻のその疲れ切った表情から、機内での長旅の苦労の様子が見て取れた。
  私は、単身で家族を待つ間に、子供たちには土に親しむ必要があろうと、庭付きのテラスハウスを借り上げていた。
  シンガポールは人種のるつぼと言われるほどに、多人種が入り混じって生活する国だ。その中にあって子供たちは、それぞれ小学校やプレイスクール(幼稚園)で、なんの分け隔てもなく伸び伸びと過ごしていた。
  家庭での子育ての苦労というものは、妻が一手に背負い込んでいた。
  子供たちは、庭に大きな穴を掘って、
「うわーい、ブルドーザーだあー!」
  と言って、全身泥んこになって遊んだり、近くの公園の池でグッピー捕りに夢中になるあまり、池にはまって、さあ、たいへんだったりで、まるで自然児のようだった。
  子供たちはそんな生活を通して、いつしか、東南アジア特有の開放的な空気を思う存分に肌で吸収していった。

 帰国後間もなく、長男と長女は小学校へ、次男は幼稚園に転入した。幼児期に自由奔放な生活環境で体得した習慣というものは、一朝一夕に異文化社会になじむものではない。
  当時、日本は高度経済成長の最中、国際化が緒についたばかりで、学校や地域社会における帰国子女の受け入れ態勢は、今日ほど十分とは言えなかった。
  子供たちが異国で身に着けた自由奔放さが、祖国日本で容易に受け入れられないなどとは、予想だにしなかった。同時に、私たち夫婦も子供たちを通して、日本という国が持つ閉鎖性の一端を垣間見たのである。
  しばらくして、子供たちがとうとう、写真
「ママー、シンガポールに帰りたいよー!」
「パパー、もう日本はいやだよー、向こうに帰りたいよー!」
  と言いだしたのだ。
  さもありなん。当時の日本は、金太郎飴(きんたろうあめ)のような画一性を重視するあまり、子供たちの個性を引き出したり、伸ばしたりしようとする風潮・教育風土があまりなかったのではないか、と今にして思う。
  異文化と、すべてが新しい日本の生活環境のはざまで、幼い心の葛藤を余儀なくされた子供たち。親として、どうすることも出来ず妻と二人で心を痛めたものである。
 
写真  三人の子供たちは、幼い頃の様々な思い出を胸に秘めながら、紆余曲折と一言で言い切れないような苦労を経て、たくましく成長した。
  折に触れて、常夏のシンガポールや帰国直後の懐かしい思い出が私の脳裏を過(よ)ぎるのである。

 

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