クリスチャンビジネスマンへの朗報
働くことに喜びがありますか?    
>> 『参考文献』
〜信仰による労働の変革〜

アガペコミュニティーチャーチ 門谷 ユ一


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目次


U.神が与える労働の本来の姿

1.労働の目的と理由
   私たちは何故働くのか、又何故働かなくてはいけないのか、以下に労働の目的と理由について、聖書的な観点から考察を行なう。

(1)創造と労働の目的は一体化
  労働は神の創造の計画の中に含まれているものである。創世記の御言葉に「そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。」(創世記1:26)とあるように、神は人を創造されるとき、人が労働することをすでに定めておられた。従って労働は神が定められた活動であり、人類に対する神の最初の目的にかなうものであるということができる[4]。このように人間は本来労働するように造られたものである。詩篇の御言葉に「人はおのれの仕事に出て行き、夕暮れまでその働きにつきます。」(詩篇104:23)とあるように、人間の労働は神の創造の活動の一部として考えるべきである。

(2)労働は神のための奉仕である
  創世記の御言葉に「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)とあるように、人間は神のかたちに創造された。そして神は、神のかたちに創造された人間を祝福し、御言葉に「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」」(創世記1:28)とあるように、彼に神が造られたすべての被造物を支配することを命じられた。更に御言葉に「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」(創世記2:15)とあるように、 神は創造の世界の中心に人間を置き、エデンの園を耕させ、守らせた。その意味は、他の被造物の中で、人間は神を代表し、神の御旨に従って地を治めるということである。地を治めることが、神の栄光を現す仕事であった。これが人間に対する神の最初の御計画であったこと、そして労働は主に栄光を帰すことであることを覚えておかなければならない[11]。
  ここで支配するとは、神に代わって世界を治めるということである。世界を治めるように命じられた人間が、具体的に何をしたか聖書をたどってみると、神が創造されたものに名前をつけたと記されている、「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。」(創世記2:19)[3]。人間が神の被造物すべてに名を付けたことは、人間が被造物一つ一つを認め、受け入れ、その本質を理解し、それぞれの限界を画し、支配することを示唆している[10]。
  また、耕すとは作物の成長を促すことである。従って神が創造された世界を治め、耕すという人間の使命は、世界の全てのものに神が意図されていたそれぞれの本質を実現させ、しかも全体がお互いに侵害し合わずに、調和のとれた秩序を保ち、しかもその全てがいきいきと成長・発展するようにすること、つまり世界を神のみこころにそって管理するということである[3]。
  支配とは、本来神に属することであり、いのちを成長させるのも神のみがなし得ることである。従って世界を管理するということは、本来神のなさることを代わってさせていただくという光栄に満ちた仕事なのである。この仕事に携わることは大変な光栄であり、誇りであり、大きな喜びなのである[3] 。神は人間にこの世の管理を任されたが、これは本来王的職務である。この王的職務の内容は宇宙の秩序付けであり、支配である。この光栄ある任務を信仰によって受け止めないときには、現代に生きる人間は、大社会の中の一点にすぎないという自己の無力性や、体制、組織、国際関係の中での絶望的無力性を知らされ、果ては神経症的に自己顕示的欲望に追い回されようになる[6]。

(3)労働は神を礼拝することである
  新約聖書で礼拝を表す言葉の一つ「ラトレイア」は、もともと世俗のギリシャ語で賃金を得るための労働を意味した。又ヘブライ語の「労働(アボダー)」という言葉は、もともと「礼拝(アボダー)」という意味をもっている。エデンの園における罪なきアダムの行為においては、労働、文化と礼拝、宗教の区別はなかった。労働は同時に神礼拝に直結していたので、創世記第1章及び第2章の中には特に神礼拝の規定はない。罪なきアダムの労働が同時に神礼拝を意味した程、その労働には厳粛なものがあった[6]。労働には神を礼拝する目的が含まれている。

(4)労働は人のための奉仕である
  聖書において、労働はもう一つの側面から見られている。それは人間に対する奉仕という面である。主に対する奉仕は、同時に隣人に対する奉仕でもある。この二つの側面の間には深い内的な関係がある[11]。パウロは主に対する労苦と仲間のための労苦の直接の関係について次のように語っている、「あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20:34〜35)。
  私たちは人間としていつも隣人に対して愛の負目を持っている。私たちは全存在と全所有をもって隣人に奉仕しなければならない。私たちの労働の第一の意義はここにある。自分の労働をいつも他の人達に対する奉仕として理解すべきである[11]。隣人に対して良いことをする人は、神に対して奉仕をしている。しかし、このことは、救いや祝福を得るための何かの報酬として神が善行を求めておられると理解すべきではない。人間が互いに仕え合い、互いに助け合うことを神は望んでおられる[11]。次の御言葉は必要を覚えている人を助けるようにと勧める、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(Tペテロ4:10)、「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」(ローマ15:1〜2)、「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:12)。

(5)労働は恵みを受けることである
  マックス・ヴェーバー[12]によれば、職業は神から与えられたものであり、利潤追求のために働くのは善、得られた利益は恵みと考えられるようになる[13]。

(6)労働は必要を満たすためである
  労働は自分自身と家族のために備え(「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」(Tテサロニケ4:11〜12)、「兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。」(Tテサロニケ2:9))、必要としている人々のために備え、与える存在として生き(「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(エペソ4:28))[2] [4]、又私たちの必要を満たし[2]、更に人類に共生をもたらす真の産業社会を生み出すために必要である。新約聖書の御言葉に「人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」(Uテサロニケ3:8〜12)とあるように、労働の義務は強調されていること[11]を覚えたい。

(7)労働は文化命令である
  労働に関する創世記の御言葉は、人間の文化的働き(労働命令、又は文化命令[6] )についての神御自身のことばであって、それは贖罪の前に与えられた[11]。労働はマタイの福音書にある大宣教命令「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:19〜20)に対する文化命令である[2]。これは詩篇の御言葉「あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」(詩篇8:6)からも伺うことができる[6]。文化命令のことを第二の召しということがある[6]。

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