クリスチャンビジネスマンへの朗報
働くことに喜びがありますか?    
>> 『参考文献』
〜信仰による労働の変革〜

アガペコミュニティーチャーチ 門谷 ユ一


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目次


U.神が与える労働の本来の姿

2.労働への召し

 神が与える労働の本来の姿を見ようとするとき、神による労働への召しを抜きにすることはできない。以下に労働への召しについて簡単に考察を行う。  
  召しという用語は旧新約聖書を通じて極めて数多く用いられている。この用語は、語意的には本来「呼ぶ」とか「名をもって呼ぶ」を意味している[10]。召しとは、神がキリストにおいて始められた救いの全過程にかかわる驚くほど豊かな概念である[4]。召しは神の人間へのよびかけであり、命令であり、その人間の個性化であり、栄光化に他ならない。それ故、現代の「生きがい」論が人間の主観的相対的レベルでの問題であるのに対して、神の召しは人間の超主観的不動の「生きがい」を与えるものであり、人間は召しに対して敏感に反応し、応えていくことが必要である[6]。

 召しには大別して二つある。一つは神に代わって行う世界管理のわざの一環を担う労働への召しである(「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」(詩篇8:4〜6)、この他、Uテサロニケ3:10〜12、Tテサロニケ4:11、出エジプト記31:1〜3)。
  今一つはイエス・キリストにおいて救われ、新しい命に導き入れられた者として救い主イエス・キリストを証しし、彼の福音を宣べ伝えてすべての人間をおなじ恵みに招き入れる、証しと宣教への召しである(「あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(ローマ1:6〜7)、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:14)、その他、Uテモテ1:9、ヘブル3:1、Tコリント1:9)。

 すべてのキリスト教信徒は本来すべて神からこの二つの召しを受けていて、それぞれ信仰に応じ、分に応じて与えられた労働に励み、また救い主を証しし、福音を宣べ伝え、神に与えられた務めに献身すべきなのである。牧師や伝道師の召しは、この二つの召しが重なって、後者の召しに集中したと考えることもできる[5]。言いかえるならば大宣教命令(マタイ28:19〜20)に対して強い召しを受けた者を牧師、伝道師と呼び、文化命令に対して強い召しを受けた者を職業人と呼べるであろう。明確な召しを持つ牧師、伝道師が必要なことは、昔も今も変わりはない。しかし同じように、召された教師、献身した公務員、つかわされた会社員、又神からの使命を自覚する主婦が必要である。このような、神に召され、与えられた務めに身をささげるキリスト教信徒を通して、神の栄光が現され、彼を地の塩としてこの世が保たれ、彼が放つキリストの香りに引き付けられて、多くの人間がキリストのみもとに導かれてくるのである[5]。従って召しをフルタイムでキリスト教の仕事に就くという直接献身にのみあてはめることは間違いであるが[2] [6]、時として専門の伝道職に限定して用いられ、他の職業には召しがないという印象を与えてきた[4]。職業の選択についても、別個の召しとして求めるものではなく、救いへの神の全体的な召しに対する私たちの応答の重要な一部と見做すことが重要である[4]。

 ドイツ語の「ベルーフ」は、元来「召し」を意味する言葉であるが、宗教改革者たちは職業を「ベルーフ」と呼んだ。職業を神の召しと考えたためである。また、職業を召しに応答する「場」として考えた。これは、今日、私たちが安易に使っている職場以上の意味を持っている。「ベルーフ」ということばによって、神に対する奉仕としての労働の意味が強調され、「場」ということばにより、キリスト教信徒が置かれている状況の中で、神がその人間を用いてくださることが意味されている。神は、ご自分の創造した人間を愛しておられる。そして、すべての人間が、置かれた状況の中で、良い積極的な働きをするようにと望んでおられる。神は恵みのうちに、人間を支配し、支えておられるが、この恵みが、人間の召された労働のわざを用いてくださる[11]。宗教改革によって、神の召しは、宗教的領域にとどまらず、家庭や、畑や、職場の労働にまで広がり、すべてが神に対する奉仕として理解されることとなった。「神への奉仕」ということばも、ルターによって、ベルーフなる労働の中で、毎日、忠実に、真剣に働く意味に変ってしまった[11]。カルヴァンも、すべての職業は神によって与えられたと説き、ルター以上に積極的に、神が一人一人の人間をそれぞれの職業に召されたということを強調した。そこでは職業は、生きるための仕事に終らず、神に召された尊い使命となる。カルヴァンは牧師や伝道師などの聖職への召しだけでなく、世俗の仕事へも神の召しを認め、与えられた職業を神からの召しとして受け止めてその仕事に献身することの大切さを説いた[10]。

 神は、キリスト教信徒一人一人に、彼にふさわしい務めを備えて、そこに彼を召されるのである。そういう意味の召しは重荷でなく、恵みである。この召しは万物の主催者からの召しである。その務めは神がよしとされるもの、いやもっと積極的に、神が必要とするがゆえに、恵みを持って備えられた労働である。人間が自分の意思と判断で選び取るものでなく、神が備え恵みを持って召してくださる務めなのである。しかし、人間は神のかたちをもつ。すなわち、人間は主体性を備えた人格的存在として創造されたので、神は人間に労働を強制されない。人間が主体的に応答するように召してくださるのである。神は罪から解き放たれ新しくされた命に、自分自身を燃え立たせて励むことのできる、意義のある務めを与えて下さるのである[5]。

 労働は、神が与えて下さる召しであり、人間が自発的に選ぶ務めである。だから、その労働を選んだ人間は、その労働について神に対して責任を負う。人間は多くの労働でなく、一つか二つの特定の労働に召されることに注意しなければならない。分業組織に入って神の労働への召しに応えようとする人間は、そこで責任感を育てられる。彼は自分の携わる労働がどんなに小さく苦痛に満ちたものでも、そこで神による世界管理のわざの一環として用いられるのである。人間の労働はどんなに小さくても、隣人に仕える道であり、神を崇める具体的手段である[5]。この労働についての召し観は、召された労働の意味を理解するに従って深まる。特定の労働に携わるとき、その労働についての専門技術の習得以上に、その労働の社会的意味の理解、さらにその労働の宗教的意味の理解が大切である[5]。

 では特定の労働への神の召しはどのようにして知りうるのであろうか。第一は、神に身を献げることによってである。多くの人は、神の御旨を示されたら献身しようという。しかし、一般に神は、先ず自分を献げる者を召されるのである。第二は、人は必ず主に仕えることのできるなんらかの賜物を与えられている。それゆえ、その賜物を発見することが、主の召しを知る近道である[5]。第三は、自分の生涯がいつも神の御手の下にあることを確認し、その時までの摂理的な導きを信じて、それまでの経験を生かすことを考える。このような、聖書の原則に基づく、祈り深い熟慮を通して、特定の労働を選ぶ。そして、その労働に召されたことを確信するのである[10]。すでに何らかの労働についている人は、それが神から与えられた労働、そこが神に召された使命の場であると受け止め、その仕事によって神の栄光を現すように努め励むべきである。召されたところにとどまり、そこで主に仕えるのがクリスチャンの歩みの原則である、「ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています」(Tコリント7:17)。しかし、さらに優れた神の御心にかなう道が示された場合、そこに移って差し支えない、「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい」(Tコリント7:21)[10]。
  以上述べたように全ての仕事は神の召しであり、神様からの使命であるという召しに関する見方は、キリスト教信徒にとって大変重要である[6]。日本のこれまでの宣教の欠陥は、自己の職業を召しとして受け取るように教えず、ただ教職のみに召し観の重要性をといたことで、二元論や、聖一元論の方向を強調した点にある[6]。

 

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