クリスチャンビジネスマンへの朗報
働くことに喜びがありますか?    
>> 『参考文献』
〜信仰による労働の変革〜

アガペコミュニティーチャーチ 門谷 ユ一


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目次


V.神から離れた労働の姿

4.労働をどのように行なっているか

(1)創世記3章17〜19節の御言葉に「また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、―――。」とあるように、人間が罪に堕落したので神との開かれた最初の交わりは破れ、人間は神の裁きの下に置かれた罪人となった。そのために労働も神の裁きの下に置かれることとなった。

(2)伝道の書1章13節の御言葉に「私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。」と示されているように、虚無が罪と共に訪れてきて、エデン的労働が積極面を示したのに対して、消極面が生まれ、ここで労働の二重性が出てきた。労働の空しさと苦しさが人生の中に訪れ、本来は喜びであるべき労働に暗闇の影が訪れた[6]。

(3)人間の罪の故にその労働は堕落し、労働はもはや神が意図された純粋な喜びではなくなり、労働を豊かさよりも苦痛と思うようになった[4]、即ち罰としての労働の状態となった。厳しい強制力と支配、そして労苦に対する見返りとしての金銭的な報酬という、因果の鎖に繋がれる状態となった[5]。本来の労働が、歪んだ形で人間を支配するようになってしまった。「そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった」(創世記3:23)と御言葉にあるように、労働の汗、すなわち労働に伴う労苦や困難は、堕落の結果である。

(4)神から離れ、神と分断しているため、霊が働かず魂(知、情、意)によって労働を行う状態、即ち神の視点ではなく自分の視点で、自分の力や能力により頼んで、この世や肉の力で労働を行う、という状態となった。又、主の約束よりも目の前にある事実に判断基準を置き、目先のみを見、主の約束を見ない労働の状態となった。労働そのものは、神の人間に対する計画のうちに初めから含まれていたもので、本来祝福されるべきものであるが、神からの真理や知識や知恵を含む多くの恵みを受けること無く、又神からの祝福を受けることなく、ただ自己の力のみによって行うようになった。肉の目に見えるもの、五感で感知できるものにより頼んで行うようになった。
  これらの点に関して、ウッチマン・ニー[23]は次のように述べている、「人間の潜在的意識は、たとい神が行なうことを求められず、またそのための力を与えてくださらなくても、自分自身で立派にやりとげられると思っているのである。余りにもしばしば私たちは神から離れて行動し、考え、決定し、力を持つように仕向けられているのである。今日の私たちキリスト者の多くは、発育過剰の魂の持主なのである。魂の力、魂のエネルギーは、私たちすべてのものに存在している。主によって教えられた人は、その原理をいのちの原理とみなすことを拒否する。またそれによって生きることを拒否する。この人たちは、その力が支配権を握ったり、あるいは神の働きの力の源となることを許さない。しかし神によって教えられない人々は、それに依存する。彼らはそれを利用し、それが求めている力であると考える。生れつきのままの賜物と霊的な賜物との相違が、これでおわかりだろうか。祈ることもなく、神に全き依存をすることもなく行うことのできることはなんでも、すべて生れつきのいのちの泉から生じているのであり、それについては注意を払う必要がある。」

(5)労働を競争して、戦って、額に汗して行う状態となっている。神の力と祝福が少ないと進化論的になる、又むなしくなる、「日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(伝道者の書1:3)。そのことの現われがここにも見られる。

(6)この世に調子を合わせた労働となっており、隣人は金や他の利益を得るための欲望の対象となっている。労働で得たものは自分のものという感覚しかない状態となり、労働に頼って生きることが、非常に苦しく、苦痛に満ちた、喜びの無い、困難な状態になっている。人間にとって労働は悲しい状態にある。更に労働は神を冒涜するものにすらなる、「彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」
  彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」」(創世記11:3〜4)。

(7)罪のもとにある労働は、人性の悲惨をもたらす側面を持っている。本来、神を喜ばせ、創造の目的の遂行であり、人格の発展とその本質の具体化である労働が、罪によって貪欲の手段となり、犯罪のもとになり、労働の所産の物神化をもたらし、エコノミック・アニマルを作り、人間疎外のもとになった。信仰に依らない労働は、人間の悲惨をもたらす[6]。

(8)現状は霊(教会)と肉(この世、労働)との二元論のような状態になっており、労働が霊的なものと切り離されている。しかし本来は一つであるべきである。これは教会が産業界などのこの世に対し、建設的な衝撃を与えることにそれほど敏感ではなかったことによる。又キリスト教徒である労働界の良心に、神の目的と言う光を当てることも、十分には果たしてこなかったことにもよると思われる[4]。


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