クリスチャンビジネスマンへの朗報
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>> 『参考文献』
〜信仰による労働の変革〜

アガペコミュニティーチャーチ 門谷 ユ一


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目次


W.信仰による労働の変革

4.信仰は労働にどのような形で働くのか @

  ここでは、信仰を持つと労働は何故良くなるのか、即ち信仰は労働の上にどのように働くのか、どうして労働は変えられ祝福を受けるのか等について、聖霊論、人間論の観点から考察を行なう。

(1)聖霊論的考察
・人間の構成について
  聖霊の労働への係わりを考察しようとする場合、聖霊の受け手であると同時に聖霊の働かれる場所であり、又労働の実際的な実行者でもある、人間の特性を知ることが不可欠である。しかし人間は大変複雑であり、様々な特性を有する存在でもある。従って、人間のどのような特性に着目すれば、労働に対する聖霊の働きを最も明快に説明できるかに関しては、簡単には答えが得られないと思われる。そこでここでは、人間の構成という特性を用いて考察を試みることとする。人間の構成に関しては、その基本的見解として三分説、二分説、一元論、条件つき統一体等の様々な説がある[31]。
  三分説は保守的なプロテスタントの間に広まっている一つの見解である[31] [32]。この説は、人間を「物質的部分」である「体の部分」、「非物質的部分」である「魂の部分」、「非物質的部分」である「霊の部分」の三つの部分から構成されていると見做す(「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(Tテサロニケ5:23)、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12))。この説においては「非物質的部分」である「魂の部分」と同じ「非物質的部分」である「霊の部分」とを明確に分離する。この「霊の部分」によって人間は霊的な事柄を認識でき、霊的な刺激に応答できる。人格的特性が「魂の部分」に住むのに対して、霊は個人の霊的な特質の座である。神を信じない人間は罪の結果「霊の部分」が死んで神との交わりが絶たれ、神の保護と備えを喪失して、自分を人生の主として自己の「体の部分」と「魂の部分」によるサバイバルを余儀なくされている。霊的次元は忘れられ自己啓発による魂の肥大化が生じる。このような生き方のパタンが条件付けされた有様をパウロは肉と呼ぶ[16]。「魂の部分」には、「霊の部分」と「体の部分」の媒介役として、霊的領域の事柄を、思いや感情によって理解・把握し、意志決定を行う機能がある。又逆に「体の部分」の感覚器官を通して得た外部情報を内に取り込み、それを霊的領域との関係において評価するという機能もある[16]。
  二分説は人間を「物質的部分(肉体的な部分)」と「非物質的部分(非肉体的部分)」の二つの部分から構成されるとする説である(「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)、その他、マタイ6:25、伝道者の書12:7、Tコリント5:3、5)。この説は、キリスト教思想史のほとんどを通じておそらく最も広く支持されている説でもある[31]。この説における二つの部分を「外なる人」と「内なる人」(Uコリント4:16)[33]、又「土の器」と「この宝」、Uコリント4:7、と呼ぶこともある。この説においては、「非物質的部分」を神の方に向いている人間の資質であって、聖霊を受けまたあらわすことができるものとしてとらえると共に、地上に向いている人間の資質であって感覚の世界に接するものとしてもとらえる、即ち人間の構成は三分されたものではなくあくまで二分されたものであり人間の「非物質的部分」は力の二重性を持ちながらも、なおその本質においては統一されている、という見方をする[34]。二分説に賛成する議論の多くは、本質的には三分説的概念に対する反論である。この二分説において、霊は魂の一つの側面もしくは一つの機能としてしぶしぶ認められるだけにすぎなかったという説がある[35]。
  この二分説において「非物質的部分」の中に、神の方に向いており聖霊を受けまたあらわす「霊の部分」と、地上の方に向いており「物質的部分」と接する「魂の部分」との二つの部分があるという見方もできる。この見方を便宜上、準二分説と呼ぶこととする[33]。二分説では「霊の部分」と「魂の部分」の区分は明確ではなく、それらは力の二重性を持ちながらも、なおその本質においては統一されているとするが、この準二分説においては、「霊の部分」と「魂の部分」の区分は明確であり、それらの役割も明確に異なると捉える。又、準二分説と三分説との違いは、準二分説では「霊の部分」と「魂の部分」の区分と役割は異なるが両者は分離できないと捉えるが、三分説では「霊の部分」と「魂の部分」の区分と役割は明確に異なるとともに、両者は分離可能であると捉えることにある。即ち「魂の部分」を「霊の部分」から分離できないと見るか、分離できるとみるかの違いである。
  一元論は人間を部分あるいは分離した実体から構成されているとは見ず、徹底した「統一体」や「単一体」として見る説である。三分説と二分説の間の一致点は相違点を越えており、両者とも人間が分離できる部分からできた複雑もしくは複合的なものであるということに同意している。しかし、最近では、三分説や二分説という考え方の背景には、(a) からだは低次層(歴史においてこの理解がしばしば禁欲主義と結合)、魂や霊を対照的に高次層とみなすプラトン主義の存在理解の影響や、(b) 人間は精神と物体(肉体)の二実体から成るとしたデカルトの二元論の影響、そして、(c) 罪に対する刑罰としての死からまぬがれると見られる、“霊魂の不滅”というギリシャ的な考え方の影響があると判断し、聖書はむしろ“統体的”あるいは“全人的”理解を示しているという主張が強くなって来ている[25]。人間はいかなる意味においても、部分あるいは分離した実体から構成されていると考えられてはならず、むしろ、徹底した統一体として考えられるべきであると一元論は主張する[31]。この論では、人間を構成する一つの「本質」とは何か、という問いが出てくる。それは肉体なのか、魂なのか、何なのか。この問いに、自分が満足するように答えてしまうと、人間をそのような実体としてのみ見なす傾向が出てくると思われる[31]。
  条件つき統一体は、人間を物質的要素と非物質的要素とが一つになった「複合体」であると考え、死において複合体の分解が起き、復活において再び複合体が形成され、魂はもう一度からだと不可分離に結びつくと見る説であり、エリクソンが近年この条件つき統一体を推奨している[31]。
  以上人間の構成に関して三分説、二分説、準二分説、一元論、条件つき統一体の五つの説について触れた。本来複雑である人間を、このような単純な構成モデルで完全に表わすことはとてもできないと思う。しかしここでは説明をできるだけ明確にするために、敢えてこのような単純な構成モデルを用いることとする。
  では上記の基本的な説の内のどれを選択すれば、労働に対する聖霊の働きを最も明快に説明できるのであろうか。一元論は人間を単純化し過ぎているという観点から適切な説ではないと思われる。又条件つき統一体も、労働が死や復活とは直接関係しないにもかかわらず、物質的要素と非物質的要素とを一つの「複合体」と考えるという包括性の故に、この場合には必ずしも適切な説であるとは言い難い。三分説は人間を「体の部分」と「魂の部分」と「霊の部分」との三つの部分に明確に切り分けるという観点からは、最も説明しやすい説と思われる。しかし「魂の部分」と「霊の部分」の相関性およびこれまでの普遍性という観点からは、三分説よりも二分説の方が優位にある。従って説明のしやすさよりも相関性及びこれまでの普遍性ということを上位に考えるならば、二分説を選択することが適切となる。では、説明のしやすさと相関性と普遍性の三つを満足する説はないのであろうか。これらを満足する説として準二分説が考えられる。従ってここでは準二分説を最終的に選択することとする。
  この準二分説においては「物質的部分」を「体の部分」と呼ぶ。又「非物質的部分」で地上の方に向いており物質的部分(感覚の世界)と接する部分を「魂の部分」と呼び、神の方に向いており聖霊を受け「魂の部分」とリンクする部分を「霊の部分」と呼ぶ。「魂の部分」には、知性、感情、意志、能力等があり、「霊の部分」には神との交わり、良心、洞察力(霊的直感力)等がある。又「物質的部分」の外側には家庭、職場、社会などの労働の場がある。これらを模式的に表わすと図1のようになる。労働に対する一般的な霊的行動のパタンは、図1においては 神 → 霊 → 魂 → 体 → 家庭・職場・社会 のようにみなすことが出来よう。

 

 

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