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著者プロフィール


ライフワークの発見と実現


黒川知文


劣等生時代

 私は、学部時代は劣等生であった。ロシア文学を志して入ったのであるが、ロシア語があまりにむずかしい。さらに、私がはいった学科は、伝統的に最も厳しい学科であった。三年生になるまでに二人に一人は留年するのがロシア科であった。かつて、ドイツ科がロシア科にまねて、厳しくしたところ、自殺者が出たので、すぐにやめたと聞いている。

 第二志望の大学であり、最初は大学の受け直しを考えていたこともあって、ロシア語の授業には出たが、熱がはいらなかった。ロシア語よりも体育のサッカーの授業に週三、四回、まぎれこんで楽しんでいた。「専攻はサッカーです」とよく言っていた。

 当時、ロシア科には、厳しいI先生がおられた。語学の虫であるI先生に多くの学生が落とされていた。この先生は、配点をマイナス方式でされる。これは、文法的にしろ、単語のつづりにせよ、まちがっていたならば、マイナスして得点する方法であった。したがって、理論的には、合計点がマイナスになる場合もあるのであった。さらに、前期と後期の試験で六〇点以上あれば合格するのであるが、陰険なこの先生はそのように公言していながらも、守らなかった。実際にこのような例があった。Nという友人は、前期のこの先生の試験で九二点をとった。上位三名のうちのひとりであった。しかし後期試験では五八点をとった。平均七〇点以上だから、当然合格とおもっていたが、落第であった。彼は、すぐに先生にかけつけて、このことを訴えた。I先生の答えは、「後期で六〇点ないのならだめだ」であった。

 私は前期で五六点をとった。ある日、遅刻してI先生の授業で配られたプリントをもらいに研究室に行った。

 「君はなぜ遅刻したのかね?」と問われたので、下宿が一時間もかかるところにあり、朝寝坊してしまいました」とすなおに答えると、「後期試験で、君には厳しくするよ」と言われた。この先生には人情は伝わらない。

 私は、試験のために、下宿を大学の近くに移した。教会も下宿に近い高田馬場にある福音的な教会に変えた。この教会は、私にとって理想的な教会であり、信仰的にも新たにされ、二年の秋からは気分を一新して、後期の試験に備えた。必死に備えた。

 二月の試験の日、I先生は本を片手にして読みながら、教室を歩き、私のとなりで立ち止まった。そして、試験が終わるまで、そこから動かなかった。私がカンニングしないように、ずっと見張っていたのだ。

 三月。無事に合格した。成績は可、可、可であった。ロシア科では「全可(・)一犯」とよぶ。私より下の成績の者は皆落第であった。六〇人中二九人が合格した。

  三年になるともはや落第することはなかった。スレスレの成績であったが、やっと三年になれた時、この大学が神様の導きによるものであると悟るようになった。        

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