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著者プロフィール


ライフワークの発見と実現


黒川知文

修士号を取得する

 当時、東京外国語大学大学院には、修士課程しかなかった。大学の教員になるためには、一般的には日本の著名な国立大学の大学院博士課程を修了するか、欧米の著名な大学で博士号を取得しなければならない。
この時私は「日本と米国とを代表する大学院の博士課程を三十歳までに終える」という遠大な計画を立てた。目標は高く、計画は緻密に、実行は信仰をもって、実現するのは神様。これが私のモットーである。
当時の地域研究科には、実に様々な研究をする者が集まっていた。国際政治、歴史、人類学、哲学、思想史など学際的研究環境にいた。現役で大学院にはいった者は稀であった。平均年齢三十歳であった。海外に留学する、博士課程のある大学院に入り修士課程でもう一度学ぶ、はいりやすい私立の博士課程にはいる、国立の博士課程にはいるなどいくつかの選択があった。
私はすでに大学院に入る時に今やるべきことをしないと次の道は開けないということを学んでいたので、修士論文を完成してから次の道を考えることにした。
大学入試で一年浪人したので、時を無駄にすまいと最短距離で修士課程を終えようと思い、「だめでもともと」の覚悟で二年で修士論文を書くことにした。二年目の夏に史料が見つかった。翌年の一月までに論文を書き上げることは無謀であった。しかし、あえてそれに挑戦した。神様が力をくださると信じていた。
この時、私は、ひとつの作戦を立てた。それは、できる限り多くの先生に論文を見てもらって完成するという作戦であった。歴史学、国際経済学、社会主義経済学、国際政治学、社会人類学、経済史、社会思想史、ロシア史、ロシア文学、ソ連政治学などを専門にされている十人の諸先生に個人的に会い、修士論文の構想を説明して、意見を伺った。それを元にして論文を修正、追加した。どの先生にも納得がいき、またいかなる観点からみても批判に耐える論文がこのようにしてできあがった。
私の修士論文は、歴史学、社会思想史、ソ連政治学の三名の先生が審査された。口頭試験でいろいろと論議した後に、尊敬している山之内靖先生から、「君の論文には文句のつけようがない」と言われたのを鮮明に今もおぼえている。彼はその時「ところで君はここを終えてどうするのかね?」と聞かれた。私は、「イスラエルかアメリカに留学するか、日本の他大学の博士課程に進学したいと思っています」と答えた。先生は、「日本の大学院なら、一橋大学に阿部謹也という先生がいて、君の研究に近いだろう。しかし、一橋大学の博士課程からはいることはむずかしく、まず無理だろう。前例がない」と言われた。
口頭試験が終わり、緊張から抜け出て、次にとるべき進路を考えた。いかに困難な道でも神様の御心ならばか開かれる――ということを信じ、すでにそのことを体験していたので平安をもって考えることができた。

 

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