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著者プロフィール


ライフワークの発見と実現


黒川知文

文献収集の旅
 
 1991年にソ連邦が崩壊した。これはロシア研究者にも大きな影響を与えた。特にロシアの宗教や民族問題を扱っている者にとって喜びであった。それまで読むことを禁じられていた宗教や民族問題に関する資料もグラスノスチにより外国人に公開されることになったからだ。
米国の国会図書館に行っても手にすることができなかった1881年のロシア正教会の雑誌を私は手にいれることができた。ロシア専門の本屋を通してモスクワから直接コピーが送られてきた。費用は十万円であった。私は喜んだ。分厚い一年分の週刊雑誌。この雑誌にボグロムのことが書かれていた。かつて修士論文において資料が足らずに推測していたことがこの資料によって実証することができると思った。ボグロムというユダヤ人に対する迫害運動の宗教的要素がこれである程度明らかになると思った。
 あとひとつほしい資料が当時の地図であった。特にボグロムが発生したエリサヴェトグラード市の地図が見つかれば、民衆の具体的な行動を知ることができ、学位論文として完璧なものになると思った。日本の書店や図書館にもなく、ウクライナ研究者に聞いても持っていないとのことであった。
 ある夜、指導教授から電話があった。指導教授が理事をしている会の研究助成基金に応募せよとのことであった。その後、指導教授はその基金への申請書を私に郵送してくれた。申請書には丁寧にも鉛筆で書くべきことが下書きされていた。どこまでも親切な指導教授。ありがたいと思った。
 二週間ほど後、指導教授から再び電話があり、理事会において本年度の研究助成基金を私が得ることになったとのことであった。五十万円の基金である。「このお金でアメリカへ行って資料を捜すか、ロシアに行って現地調査でもするがよいだろう」
 私はボグロムが発生した都市の革命前の地図の獲得と現地調査とを目的とするウクライナ研究旅行の計画を立てた。そしてついでにユダヤ研究者なら必ず訪問しなければならないポーランドのアウシュビッツとワルシャワのユダヤ人ゲットーの跡も訪問することにした。さらにはロシア正教の総本山のザゴルスク(現セルゲイポサド)等も訪問することにした。旅行代理店と綿密な計画を立てて、二週間の一人旅に出かけた。途中、日本にいる家族に二度と会えなくなるのではないかと思ったほどかなり危険な旅であった。
 その旅において、収集するのは無理だと思っていた革命時代の都市の地図が見つかった。キロヴォグラード(旧エリサヴェトグラード)の私立図書館の歴史参考室の壁にそれはかかっていた。あたかも私の訪れを待っているかのように思えた。図書館員に言って、ただ同然の値段で買うことができた。
 神様はまたもや不可能を可能にしてくださった。学位論文を完成せよと神様が確かに導かれていることを悟った。
百年以上も前の事件ではあるが、その事件の発生場所を実際に歩くことは多くの示唆を与えてくれた。大海原のようなウクライナ平原。便数の少ない汽車。かなりへだたっている村と村との距離。このようなことを確かめて、ユダヤ人への暴動が政府関係者が画策したものではなく、予想以上に自然発生的性格の強い暴動であったと思えてきた。
 また地図で確かめると、暴動が発生した地域は三つのロシア正教会と二つのユダヤ会堂が囲む地域であった。私の推測通りにかなり宗教的な要素がこの暴動に反映していることもわかった。

  

 この旅行の結果、ボグロムの自然発生的性格と宗教性という二つの性格が十分立証できることになった。実際、この結論が私の学位論文のオリジナリティーとして後に評価されることになる。   

  

ロシアの写真
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF

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