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著者プロフィール


ライフワークの発見と実現


黒川知文

新たな発見

 貴重なロシア語の同時代の資料、ロシア正教会の週刊雑誌は夏休みの日中を使って読んでいった。久しぶりに扱うロシア語文献であるが辞書を引きながら読むことができた。
  同時代の資料を読むことに興奮を覚えた。当時の人々の感情や考えをある種の迫力を感じながら知ることができる歴史研究の醍醐味。楽しい資料分析の時間であった。
  そこにはロシア正教会側もユダヤ人迫害運動が南ロシアにおいて起きたことに驚いており、その原因を宗教的要因に求め、さらにこの事件が全く自然発生的事件であったと結論していた。従来の欧米研究者の政府画策説ではなく、私のかねてからの見解を十分証明しうる内容であった。嬉しかった。やはり自分の仮説が正しかったのだ。しかしなぜ長い間画策説が取られたのであろうか?私は画策説をとった研究者を調べた。彼らは同時代の研究者であったからこれまで彼らの画策説が主流となっていた。しかしよく調べると彼らのほとんどはユダヤ系学者であること、さらに啓蒙主義者(ハスカラー)に立つ者であることがわかった。ハスカラーのユダヤ人は民衆を啓蒙以前の無知な者として軽蔑する傾向にあった。歴史を動かすのは民衆ではなく、啓蒙思想に立つ者であるとみなしていた。したがって民衆が主体となった運動は認めることができなかったのであろう。
  さらに彼らの生きた年代を調べると、ほぼ共通して若い時に第二次ボグロム(1904〜6年に発生したボグロム)を経験していたことがわかった。第二次ボグロムは明らかに皇帝政府が民衆の関心を革命からユダヤ人迫害に向けさせるために画策して実際に地方当局に命令して発生したボグロムである。『屋根の上のバイオリン弾き』の中で見られるボグロムはこの時期に起きたボグロムである。従って自分が経験したボグロムと1881年ボグロムとを同一視した可能性がある。さらに彼らが使用した資料について考察すると、第一次ボグロムの公的資料が発行されたのは1919年以降である。とすると、彼らは公的資料を読まずに画策説を立てたことになる。すなわち、同時代の資料を読まずに噂や印象などをもとにして立てられたのが画策説であったのではないか。彼らの次世代の者は公的資料を使用して研究したにちがいない。しかし次世代の研究者はナチスのホロコーストのために虐殺されていた。
  欧米にも同様な考えをもつ研究者がいることを確認し、それも参考にした。画策説はこのようにして音をたててくずれていった。私は確信をもって自然発生説をとることにした。

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