Back No  <Back Number>


テモテ・コール
著者プロフィール


家庭と仕事 

テモテ コール執筆 ファミリー・フォーラム代表


●結婚って困難だっけ? 第五号

夫の性を理解するにはー

 「男性とはこうでああだ」とひとくくりにして言ってしまうのは、「鳥とはこうでああだ」とひとまとめにしてしまうのと同じくらい、実用性のない発言であるかもしれません。しかし実際には、男性一般に共通して見られる独自の特徴もいくつかあります。そのひとつが、女性、特に妻との間柄に関連してくるもの−強い性衝動です。Dr.アーチボルド・ハートによる男性の性行動に関する研究報告書 では、男性の約80%が毎時間または毎日セックスについて考える、という結果が発表されており、Dr.ウィラード・ハーレイによる夫婦に関する調査 では、大多数の夫がセックスを結婚で最も重要なニーズとしている、という回答が述べられています。ポルノ、売春、その他のセックス産業が、もともとは男性のために存在したというのは決して偶然ではありません。

 上記の結果を基にすると、ほとんどの夫が性衝動との闘いに日々面していることになります。生理学的には男性ホルモン、テストステロンの効果が脳を刺激し、性的快楽、性的満足、性欲発散への願望を大きく増大すると考えられています。女性の性欲レベルが感情によって大きく左右される一方、男性にとってセックスがそれ程までも「物理的」であるのは、テストステロンが原因しているためです。

 男性はただでさえ視覚的な刺激に弱い、そんな事実に付け加えて、ビジュアル的な性の刺激に氾濫する現代社会では、男性の運命はもはや絶望的です。体の線やプロポーションを強調するぴったりした洋服、衣類の下が寛大にもちらりと見えるようなルーズな服装、等、一見して誘惑や思わせぶりが唯一の目的であるかのような女性のファッションに完全包囲されています。このもくろみは大胆か微妙かの違いさえあれ、女性のファッション広告や雑誌を通じて見事に配信、普及されています。さらに、インターネット、雑誌、映画が競い合って描く卑猥なイメージ、これが男性をどれほど激しい性衝動へ駆り立てるのか、女性はまだ知る余地もありません。夫の「性欲が強すぎる」のではありません。ただそれが、男性に備わる構造なのです。

期待のずれ

 既婚男性の多くが妻より頻繁に性関係を求めている。言い換えれば、夫の大多数にとって性関係の頻度が希望より少ないと感じている。これらは様々な意識調査によって明らかにされた実態です。妻たちの中にはこのような夫のあり方を否定したり、侮辱したりする意見があり、自分の夫をまるで「動物」や「変態」扱いさえする女性もいます。「私のこと愛してなんかいない。性欲を発散したいだけでしょう!」と夫の誘いに憤慨する妻もあれば、「どうせまたテストステロンでしょ」とあっさり片付けてしまう女性もいます。こんな妻たちの不満にもきっともっともな言い分があるだろうとは言え、これは、「鬱なんかじゃないって。どうせまた生理でしょう」と、夫が妻に向けて発言するのと同じくらい思いやりのない言葉です。性における期待のずれは夫婦間に亀裂をもたらす最大原因のひとつであり、解決の糸口が見えないまま何年も過ぎると、夫も妻も自暴自棄から絶望へと追いやられていきます。繰り返す憤り、拡張するだけの溝、失望感… どこから歯車が狂い始めたのだろと傷付き途方に暮れる妻を横目に、不貞、ポルノ、その他の性依存へと走り始める夫たちは決して少なくありません。

 妻のあまりの無関心に苛立ちを隠し切れなくなった夫は、当初見せてくれた情熱は一体どこに行ったのだろうと、伴侶に裏切られた思いでいっぱいになります。誠実と貞潔を約束した純粋な夫ならば、妻だけに性のエネルギーを注ごうとしているのに、何の報いも励ましもない、と感じずにはいられません。「妻たちは、愛され、守られ、大切にされていることを実感したいのよ、感情的なニーズを先に満たしてあげなくちゃ。セックスはそれからでしょう」と、夫たちがいかに間違っているかを指摘してくれる本はちまたに溢れ返っています。優しく接し、良い聞き手となり、奉仕者というリーダーシップを持ち、自分のことより妻のことを先に考える、確かにそのようなアドバイスが男性には必要でしょう。しかしそれだけでは、「ああ、性生活の失敗はすべて自分にあるのか」と、多くの男性読者はそのまま立ち去ってしまいます。

 妻がいかにして夫を「祝福」できるか、そんなことを教えてくれる本もあります。家庭を安らぎと憩いの場とし、夫に尊敬と敬意を払い、女性としての自分を魅力的に保ち、愛情に溢れ、信仰においても刺激的な存在であり続ける、そんな内容が書かれていますが、この性に関する難題となるといつも敬遠されているのです。男性の性を励ます著者やカウンセラーは非常に少なく、夫が何故そうなのか、だからどう対応したら良いのか、夫の心の内を分かりやすく妻に説明してくれる存在は皆無とも言えます。この結果、多くの妻が夫と距離を置き、意図的に性的な刺激を与えないようにと行動します。男性同士の間でさえそう簡単には切り出せない悩みです。自分の弱さや失敗に対する深い羞恥心、計り知れない苦痛や屈辱感、男性はそんな思いに苛まれ、もだえ苦しんでいます。

男性の性−神様が間違えた?

男性の性は、神様が間違えたわけでも罪の結果から来る報酬でもありません。もしセックスが、愛の表現ではなく性欲を満たすことだけに利用されるならば、それは勿論大きな問題です。しかし神様は、極めて重大で崇高な目的を持って男性の性を創造されました。それを誤解し、無理矢理「直そう」とする者は、過ちを犯してしまうのです。種馬を去勢馬として扱ったところで、種馬が種馬でなくなるはずがありません。怒りっぽく、不機嫌で、情緒不安定な馬にしてしまうだけです。それでは、セックスの目的とは一体何であるのか、その幾つかを考えてみましょう。

子孫の繁殖

 子孫を増やすことは、聖書に基づく明白な目的のひとつです。神様が人間に与えられた最初の命令とは、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」(創世記1章28節)というものでした。旧約聖書のソロモン王も、「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。…」と書き留めています。(詩篇127章3−5節)聖書に登場する男女は子供を授かることを心から熱望しました。アブラハムは「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません」(創世記15章2節)と悲嘆し、ラケルは夫ヤコブに向かって、「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます」(創世記30章1節)と叫び求めました。夫婦が子供を持つことが神様の思いであるのは(昔も今も)変わらない事実です。子を望む切実な思いが夫をセックスへと駆り立て、妻も喜んでそれを受け入れるのです。「妻からの誘いを待ち続けていたらセックスが始まることなんてまずなかった」 と打ち明けてくれたある夫も、実は12人の子供を創った父親です。子育てに必要な本能が女性に備わっているように、子供を創る本能が男性に備わっているのは、明らかに神の御業と言えるでしょう。

 人口過剰が推定される時代に入ると、環境保護責任を掲げた人口の規制が政治的に正しい判断だとされるようになりました。自己の必要に応じたピルやコンドームの使用、堕胎の遂行は、セックスと子孫の繁栄を完全に切り離していきました。フェミニスト、性教育提唱者、メディアがこぞって推進するのは、人は妊娠を「恐れる」ことなくセックスをする「権利」がある、という支配的な哲学です。この観念が及ぼした衝撃は、戦後から現在に至るまで、日本人女性の平均出産率が4.9人から1.25人にまで減少を見せた数字の上に、見事な浮き彫りとなって現れています。性に対する夫婦間の期待のずれは、子孫繁殖を願う人間の本能と、現代社会のあり方との矛盾に、多かれ少なかれ起因するところがあるのでしょう。ただ、決してそれだけではありません。

戦人(いくさびと)としての男性

 ジョン・エルドレッジ氏の大衆著書Wild At Heartは、神様が男性をいかに「戦人」として創造されたかについて述べています。「攻撃性は男性独自の気質であり、我々はそのように設計されている。もし我々が神に似せて創られたことを信じるならば、『主は戦人、その御名は主』(出エジプト記15章3節)であることをよく覚えておくべきであろう」…(さらにヨブ記39章19節−25節に言及して)種馬の戦馬は、その創造主の勇猛な心を体現する。我々男性も皆同様に、『その勝利の血統を受け継ぐ後継者』である。少なくとも、本来はそうであった。」神様は男性を、探求し、築き上げ、勝ち取る者として造られました。花嫁の為に闘い、悪に挑むよう造られたのです。こういった本能は、霊的、心理的、また肉体的な要素を備えています。

 男性がこのような攻撃的な気質「戦人本能」を持つのは、肉体的な要素から言及すれば、テストステロンが一つの原因となっています。神様の計画は、この気質が家族・文明の両者を建設する為に、抑制力を伴って大いに活用されていくことです。イギリスの社会人類学者JDウンウィン氏は、80の文明の栄えと堕落に関する研究報告書で次のように述べています。「社会をとりまとめるエネルギーは性的なものである。男性は、ただ一人の女性とただひとつの家庭に全霊を注ぐことで、家族の為に築き上げ、保ち、守り、計画し、繁栄したいと意欲を燃やす…」

 夫が人生の闘いに出向く時、その戦道は妻以外の女性や性的イメージによる誘惑で溢れかえっています。妻が合理的に願いを叶えてくれるのですから、この刺激や渇望が夫を家庭へと急がせてくれるのなら理想的でしょう。ソロモン王は息子(達)を次のように諭しました。「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から…あなたの若い時の妻と喜び楽しめ…その乳房がいつもあなたを酔わせ、いつも彼女の愛に夢中になれ。」(箴言5章15節−19節)セックスは戦人とその妻を「一体」とする接着剤であり、また、戦人を妻と家庭へ引き戻すゴムひものような役割をも果たしています。では、闘いから帰った戦人が、妻に拒絶されたらどうなるでしょうか。戦人はがっくりと肩を落とします。妻の為に闘う気力も、築き上げる意力も失ってしまいます。頼みのゴムひもは擦り切れ出し、癒しを求めてさ迷い始めるのです。

親密性の探求

 セックスだけが二人をひとつにする「接着剤」ではありません。それでも聖書が結婚について創世記2:24に、夫と妻が「結び合い」(直訳は「接着し」)、「一体となる」と肉体的な結合として描き要約するのには理由があります。聖書は性の関係を、「知る」という動詞をも用いて婉曲表現しています。(例:創世記4章1節)セックスは相手を「知ること」における極限であり、人間同士が経験できる親密さの極致であり、どのような親密さにも優る極みです。言い換えるなら、男女の夫婦間にあるセックスは、どんな人間関係にも類を見ない親密性を生み出す、ということになります。霊的・感情的土台のない性行為は、確かに虚しい肉体の満足へと急転化します。ところが、性的な渇望が放置されている男性にとって、霊的・感情的な親密さを築くというのは非常に難しいことなのです。

男女はこの意味において根本から異なります。妻が感情的なものに親密さを見いだし、性とは関かわりのない愛情表現や、有意義な会話の時間といった具体的な形を好む一方、夫は性と関連して親密さを表現する傾向にあります。夫たちも妻たちも、このことをあまり理解できていません。夫は、妻に分かってもらえるように気持ちを表現することが苦手です。優しさに欠けることもあるでしょう。思いをどんな言葉にしたら良いのか分かりません。タイミングの計り方も少しずれているのでしょう。それが、妻の冷めた反応をさらに悪化させてしまいます。結婚に関する最も大きな謎のひとつとは、妻は感情的なニーズが満たされていない時に性のニーズに応える気になれず、夫は性のニーズが満たされていない時に感情的なニーズに応える気になれない、という現象です。真の親密さは、これらのニーズを調和させることから生まれてくるのでしょう。

レクリエーション?

 夫の性的性質に見られる4つ目の目的は、…まさかと思われるでしょうが…レクリエーションです。映画を見よう、トランプをしよう、と言うのと同じような感覚でセックスを提案する夫たちはたくさんいます。だからと言ってその体験は、夫たちにとって決して平凡なものではありません。様々な研究報告書が、夫は特にレクリエーション的なものを共に体験することで妻との親近感を得る、と発表しています。  山頂から広がる絶景の眺望、釣竿に掛かった獲物を手にするスリル感、音楽から伝わる感動と恍惚、秋の森林を歩く静寂、夫はこれらの体験を妻と共有したいと切望しています。そしてセックスは、そんな感激的な体験の中でもトップに位置するのです。元気を与え、深い満足感に浸らせてくれる、それはまさに冒険そのものです。また、心を和ませ、くつろぎを覚える、癒しの体験でもあります。夫は、妻がこの熱意に共感してくれるものだと自然に思い込みます。それが本当ならば、夫の心には貴重な愛の貯金が積まれるところなのですが、「セックスをそんなに軽く扱って」と、憤慨されてしまうのがおちです。妻の立場にしてみたら、大量の家事やつきまとう子供達とドッと疲れる一日を過ごした後には、何よりも一人でそっとできるひと時が欲しい、というのが圧倒的な意見なのでしょう。ここで再び、期待のずれが生じます。ルンルン気分の夫とは対照的に不満や溜め息の隠せない妻、たとえ誘いを受け入れたとしても、その顔には「義務」と「面倒」という二文字がしっかりと刻み込まれています。妻にとってはレクリエーションではなく、勤め、以外の何ものでもありません。夫は「仕方ないよな」と頭ではよく分かっていても、「なんだ一緒に楽しみたくないか」と深く傷付いてしまいます。

誘惑との戦い

 残念ながら男性の性衝動は、聖書の呼ぶところの「肉の欲」に簡単にハイジャックされてしまうものです。この衝動は、気まぐれで自己中心的、コントロールがつかず、破壊力を伴い、常習性を引き起こす可能性を持っています。妻以外の女性に色目を使ったり、火遊びをしたり、ポルノを見たり、チャットルームや職場でいかがわしい関係を持ったり、そんな行為は妻を不安に陥れるだけです。性のニーズに応えようとする妻の努力も無視し、性欲に支配さるまま、婚外での性的満足を求めたり、愛のない一方的な要求を押し付ける夫たちもいます。これでは、夫婦の間で大切に育んでいかなければならない、繊細な愛と信頼関係が崩れてしまいます。男性は覚えておかなければなりません。最終的に本当に心を満たしてくれるのは親密さであって、メラメラと燃える性欲の炎に火を付けることではありません。

 性衝動がもたらす危険を理解していることと、実際にその衝動をコントロールすることとは、二つの異なる事柄です。クリスチャンの男性ならばイエス様の言われた、「誰でも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫をおかしたのです。」(マタイの福音書5章28節)という言葉を思い出すでしょう。ヨブは「私は自分の目と契約した。どうしておとめに目を留めよう。」(ヨブ記31章1節)と強く主張しました。女性の入浴姿を見たことから惨憺たる情事を引き起こしたダビデ王は、「私の目の前に卑しいことを置きません。」(詩篇101章3節)とその後固い決意を結びました。信仰を持つ誠実な夫ならばヨブとダビデ王の契約を共有し、刺激的なイメージや誘惑から、視線も思考も本気で回避しようと努めていることでしょう。それでも心の内では、ついこのパウロの嘆きに共感してしまうのが現実かもしれません。「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」(ローマ人への手紙7章19節)

 歪んだ性概念に氾濫するこの罪深い世の中では、男性は特に、常に清いものと悪とを区別し、前者を選び後者を拒むという闘いに挑まれ続けています。どのような闘いでもそうであるように、これは非常に疲れるし、大変骨の折れる作業です。現状のような世の中にあっては、子孫を増やし、親密さを築き、レクリエーションとして楽しむことだけが、性生活のすべてではありません。性の充実は、罪と闘う上で重要な役割を担っているのです。第一コリントへの手紙の中でパウロが言いたかったのは、まさにこのことです。「しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。…互いの権利を奪い取ってはいけません...あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。」妻が要求に応えないなら、夫はマスターベーションやポルノや不貞に走る?それって女性にセックスを強要してない?と感じる女性もいます。セックスがわびしい義務になってしまうんじゃない?確かに、そんな粗野な状況が描かれることもあるでしょう。そしてどの夫も妻の態度に関わらず、自制をし、性的誘惑から離れる責任を持っています。しかしこれには、もっと健全で適切な捉え方があります。

 ウィラード・ハーレイ氏はこのように解説します。「男女が結婚する時…二人は、排他的な関係を基に、ある種の激しい個人的なニーズをお互いに満たし合う、という契約を交わします。その権利は配偶者だけにあり、『他のすべての人を除外する』ことに同意するのです。…この権利を他人には与えないと同意したのですから、ほとんどの人が配偶者がその特殊なニーズを満たしてくれるものだと期待します。例えば、妻との二人だけの関係を約束した男性は、妻が自分の性のニーズを満たしてくれるものだと信じます。妻がこのニーズを満たしてくれるなら、絶え間ない強烈な喜びを妻に見出し、妻に対する愛も一層強くなっていきます。しかしこのニーズが満たされない時、…妻の存在は、苛立ちの原因と化してしまうのです。…」

 結婚にある契約とは、「あなたでなければ私のニーズを満すことができない」と同意するものではありません。おそらくそれは違うでしょう。夫の性のニーズを満たすことのできる女性は他に大勢いるでしょうし、妻の感情的なニーズを満たすことのできる男性だって他にいるはずです。しかし両者は、二人の間だけで親密なニーズを満たし合うと誓い合ったのです。不貞にあるのがこの誓いの破棄であり、本来の誓いでは貫かれるべき契約です。この契約を守ることが、結婚を守る重要な支えのひとつになります。配偶者の繊細なニーズに応えるとは、強い愛を育んでいく為に欠くことのできない投資なのです。

 逆に、妻が夫の誘いを拒み、セックスの先導をくじく場合は夫の性のニーズ、妻と親密性を築きたいという思い、婚姻関係における排他的契約、人としての夫、これらすべてのものを軽視する、または、拒絶する思いを伝えることになります。この状態が繰り返されれば、妻に対して感情的な距離を感じ、無関心で受身となっていくのにもそう時間は掛かりません。あまりにも深く傷付く危険性のゆえに、もう妻を追いかける気持ちにはなれません。そうなると男性としての自分を回復させてくれそうな、婚外関係が非常に魅力的に見えてきます。不貞は悪いことであり、破壊を及ぼすことだとは承知の上です。それでもセックスは、男性の弁慶の泣き所なのです。

寂しがり屋の男性

 これをより良く理解するためには、エデンの園に帰り、男性の性についてもうひとつ確認することがあります。神様はアダムを創造された後、このように言われました。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2章18節)ここでは、人が助け手が必要なことに続き、「独り」であるという事実が神様の争点となっています。男性は一人きりではどうしようもないほどに孤独で、その孤独を妻との性的親密感によっていやされようとします。しかし妻からの応答が無い場合、誠実でありたいという思いにも関わらず、孤独から開放してくれるコンパニオン( =相棒)を求め、他の場所に合図を送ってしまう可能性があります。そしてある夫が妻以外の女性を口説き始めるのです。

 日本の男性は仕事の帰り道スナックへと足げに通い、(文字通り)「コンパニオン」と呼ばれる女性にもてなされに行くのです。この現象は、既婚女性が夫の合図に応答しないのだから当然だと、すでに制度化され、正当化されさえしています。神様が女性を創られたのは、女性が男性の助け手となり、相棒となるためです。確かにこれは女性が一人で果たすには大変な役割です。しかし、日本の文化は二つを分けてしまい、「助け手」は家庭を管理し、「コンパニオン」は性的、感情的ニーズを満たすという分割主義を容認していったのです。この処置の持つ問題は、これが心の伴わないお金で買われた関係であるということを、男性が重々周知していることです。もてなされている間は孤独感も一時的に緩和されますが、その分また独りになった時にやって来るしっぺがえしは計り知れません。一方では「助け手」も「コンパニオン」も愛され大切にされているのではなく、利用されていることを肌に感じ、本当の意味で「一体となる」豊かさを知る人は、ほとんどいないのです。

簡単な解決方法?

 これまで臆面もなく一方的な意見を述べてきたのは、この記事の目的が夫の性質を理解することにあるからです。現実には、男性一人一人が異なる性のニーズを備え、その表現方法も多様であるのに対し、文章の中では典型的な男性像を描いてきました。ここまで読む限りでは、妻が常に夫の性を熱烈に歓迎さえすれば問題はすべて解決する、というメッセージが伝わりがちです。「毎日セックスさえすれば満足で、そうしたら年中ケンカすることもないんでしょう!」と、つい思いを吐き出してしまう女性もいます。しかし男性のほとんどがそんな言葉を、品のない、中傷的なコメントとして受け取ります。これは実行が不可能なだけではなく、必ずしも望ましいことでもありません。女性が男性のニーズに応えることは、男性が女性のニーズに応えることと同様、容易ではありません。真の解決策は双方に満足のいく内容でなければならないのです。

 夫婦の関係は、罪が入り込んだことによって深刻なダメージを受けてきました。その呪いの一部を上げるなら、「…あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配する。」(創世記3章16節)とあります。これは、「女性は感情的なニーズが夫に満たされる、という大きな期待を持つが、夫がその期待に応えることはありません。」と解釈するのが最も適切でしょう。ぶっきらぼうで傲慢となっていきます。この状況はこの後に続く子を産む苦しみや、顔に汗を流して糧を得る苦しみのように、世の終わりまで、人類のあり方を特徴付けていきます。容易な解決方法はどこにもありません。創世記が記録する罪の結果は、恐ろしいまでに明白です。アブラハムは妻のサライをエジプトで守ることができず(創世記12章)、イサクは父と同じ道を歩み(同26章)、サライは夫にハガルとの不貞をせがんだ挙句、その不幸な結末は夫のせいにし(同16章)、ヤコブは愛する美しいラケルと「結婚」したと思いきや、翌朝になって彼女の姉レアと床を共にしたことが分かり、その後も、争う4人の妻達を静めて過ごす一生が書かれています。このような記録は止まることを知りません。

 しかし肯定的な面を上げるならば、旧約聖書の雅歌が夫婦間のセックスとロマンスを、神様が喜ばれるものとして記述しています。パウロはこれを踏まえた上で、婚姻関係はキリストとその花嫁である教会との関係を反映する神聖なものである、と明言しています。(エペソ人への手紙5章22−33節)もしキリストの栄光が私達の結婚において少しでも影を落とす危険性があるならば,どんな夫婦の困難においても、神様が必ず助けの手を差し伸べて下さることは間違いないでしょう。罪の侵入や呪いがもたらす結果にも関わらず、神様の恵みと贖いは、私達の性に関する分野まで及んでいます。だからこそ私達はこの神様に希望を置くことができるのです。

 補足するならば、私達の心の奥底にあるニーズは、最終的に配偶者によって満たされるものではありません。それは、私たちを創って下さった創造者の神様との親密な関係を育てることによりのみ満たされるものです。非常に大切な原理ですが、これはまた別の話になります。

実用的な答え

 夫が性関係を望んでいても、どうしてもそんな気分になれないこともあるでしょう。疲れきっていたり、ほかの事で頭がいっぱいの時もあると思います。単純に性欲が存在しない時だってあるでしょう。そんな時にはどう返答したら良いのでしょうか?まず第一の原則は、お断りをするにしても夫を拒絶したり、夫に屈辱感を与えたりしない、ということです。男性がこんな時に必要としているのは妻からの愛情確認です。何故拒絶や屈辱がいけないのでしょうか?それは夫が、セックスを主導することによって繊細なニーズをあらわにし、男性としての自分をおよそ極限までさらし出したいからです。裸の状態で取り残された男性が知り得る行動はただひとつ、心を閉ざし自己防衛に入ることです。二つ目の原則は、可能な限りでニーズに応じるという希望を与えてあげることです。つまり夫の威厳を守るために、せめて代わりになる時間帯や状況を提案することです。第三の原則は、夫のセックスの提案と引き換えに、夫婦間の未解決問題を持ち出さないようにすることです。そうしてしまった時に男性がどのように感じるのか、こう想像してみると分かります。立場は逆で、妻が興奮しながら夫に話しかけます。「今日ね、とっても心に響く素晴らしいことがあったの。聞いてくれる?」夫が答えます。「今朝出勤の時に弁当を作ってくれなかっただろう。だから興味ないよ。」こんな風に返答をされたら、また何かを話そうとするのにもしばらく回復の時間を要してしまうでしょう。問題があるなら、セックスを提案する前かその後まで発言するのは控えた方が賢明でしょう。どうしてもその場で話さなければならないことならば、セックスへの期待を目の前で遮断されたと夫が感じないように、極力穏やかに進める必要があります。

性の正しい動機?

 女性に共通して見られる不満は、セックスが欲しくなるまで夫が自分に関心を示してくれない、というものです。確かに、男性がこの分野で相当な改善を見せなければならないのは現実でしょう。ただ、男女におけるおびただしい脳の違いがこの問題にも影響していることを考慮して頂きたいのです。女性が同時に複数の作業を手際よく行ない、あっちからこっちへの移動も非常に機敏に対応できるのに対し、男性は一般的に一度に一つの作業のみに集中するよう「設計」されています。テレビを見たり新聞を読んでいる男性が、「あ〜」や「う〜ん」だけのから返事をするというのは、万国共通した普遍の事実です。いずれにしても、多くの場合には問題は「関心」の無さより、男性の構造にあると考えることが出来ます。

 又、男性がセックスを求める理由には様々な形があり、その動機も大きく異なります。妻と親密さを深めたり、妻との愛を表現することが理由の時もあれば、周囲の性的イメージや女性に刺激されたことが理由である時もあります。「愛の表現が目的じゃないなら、純粋なセックスじゃない」というのは、多くの女性が感じる、共感できないこともない意見です。しかしこの捉え方は、健全な性関係を築くにあたって障壁となる傾向にあります。性生活のあり方を限定的に解釈してしまっているのです。

 この疑問に答えるには、別の基本的な人間関係における衝動−コミュニケーションとの比較が役に立つでしょう。夫婦間における「正しい」コミュニケーションとは、一体どのような種類のものでしょうか?もちろん、親切で、愛があり、誠実であり、というのは必至条件です。しかしそれを超えて何が「正しい」かというのは、通常その場のニーズや欲求によって判断されます。コミュニケーションならば、励ます、慰める、愛を語り合う、話し合う、議論をする、戒める、からかう、冗談を言う、歌を歌う、詩を楽しむ、空想話をする、などという形があるでしょう。

 次は、身体的な衝動−食べることと比較してみましょう。私達が食べる時には、それがテーブルを囲んだ集いがあるからであったり、夕食時だからであったり、単に食べることが楽しいからであったりします。その他にも、空腹だから食べ、今食べておかないと後でお腹がペコペコになるから、という理由でも食べます。食べるにあたって、たったひとつだけ「純粋な」理由があるでしょうか?どうやらそうでもなさそうです。

 これは性に関しても同じで、その場の状況によって動機も異なってきます。どうして性行為と食べることを比較できるんだ、という反対意見もあるかもしれません。前者は人間関係の絡んだ感情的な行為であり、後者は完全に身体的理由の伴うものだ、と主張されるでしょう。それが、そうではないのです。男性にとってのセックスとは、多くの場合において非常に身体的なニーズです。生殖器官に蓄積した男性ホルモンは、セックスに対する極めて執拗な需要を定期的に脳へと送り込みます。目に見える性の刺激、感触や音声による刺激も、同様の作用をもたらします。話は変わって、どうして女性の多くは、感情的なニーズを満たすために食物に走るのでしょうか?これは少し意地悪でしたが、つまりこういうことです。セックスの前提条件としてある特定の動機だけを要求するというのは、反感を買ってしまっても当然のことなのです。

 性行為も食事を取るのと同じように、日常的であっても、日課のようであっても、空腹だからであっても、お祝いムードだからであっても、何が動機でも構わないのです。多様性の中に豊かさと冒険が生まれます。これは、人生の多くのことに共通して言える真理です。

結びに…

 皆さんがこの記事を通して男性の仕組みについて理解を深められ、その理解が夫婦間に広がった長年の緊張をほぐす第一歩となってくれたら幸いです。不貞、性の依存、性的支配や虐待、もしご夫婦のどちらかがこれらのものと関わっている場合は、カウンセラーや牧師、その他の信頼できる仲間から深刻な助けを得ない限り、現状を打破していくことは難しいかと思われます。しかしごく一般の夫婦関係にあるならばどうでしょうか。夫の性に神様の業を発見することができますか?不器用の向こうにある心の叫びを聞くことができますか?夫の助け手であり相棒であることに誇りと価値を見いだすことができますか?もし答えがイエスならば、きっと、もっと夫の誘いに反応を示し、もっと夫のニーズに応える心構えを持ち、もっと大きな優しさで接してあげられるようになるはずです。 

 結婚の要素は、三角形に例えることができます。頂点は霊的な親密さ、底辺の2つの角は、それぞれ感情的・性的な親密さを象徴します。霊的な親密性が、一生を掛けて目指す最も重要な目標です。感情的な親密性は、夫婦がお互いのニーズに応えることを学ぶ骨組みであり、性的な親密性は、情熱に溢れた二人だけの関係を身体を用いて表現します。これら3つのうちどれを除いても、3角形は平たくつぶれてしまいます。

一般的に言って、妻は感情的な親密さを推進するように、夫は性的な親密さを保護するようにと、神様は特別な目的を持って男女を創造されました。しかし夫も妻も、各自別々の立場からどちらが優れているかを競い合うよりも、両者の立場を調和させながらお互いを完成させていくという光景が結婚の幸福の鍵です。妻にとっての結婚の祝福、それは、夫の性本能が神様の輝かしい設計であることを覚え、神様と共にそれを喜んでいくことにあります。

 「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。…」
(雅歌8章6−7節)


top

Copyright (C) 2004 e-grape Co.LTD. All Rights Reserved.