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著者プロフィール



こころと魂の健康
 
 

渡辺俊彦氏


自分を赦す

 私自身も含め多くのキリスト者は、自分をゆるすということが苦手なようです。私たちは、十字架の贖いによって赦されています。神の前にあって、赦された罪人として歩んでいるのがキリスト者です。そして、神との和解の出来事が、神と共に生きる人生を確かなものとしています。それは、神との関係において必要で基本的なものです。それに対して、私たちの人間関係はどうでしょうか。私たちの人間関係の確立には様々なことがあります。その中で一番大切なことは赦し合う関係です。この赦し合う関係こそが正常な人間関係を築いていくために大切なものです。
  私たちは人間関係で悩みを抱え落ち込んでいる時「嫌なことは忘れてしまいなさい」という励ましの言葉を一度は聞いたことがあるはずです。助言して下さる方々は、忘れられないからこそ悩みを抱え込んでいるという現実を飛び越えて励ましています。しかし、本当に赦すことができたら忘れることができるのです。赦すことが出来ないからこそ苦悩があり忘れることができないのです。
  また、教会では教会生活を含め人間関係で悩みを抱えていると「赦しなさい」という言葉を聞きます。まるで「赦すことができないあなたが悪い」という対応をされてしまいます。私自身もそのような経験を多くしてきました。その結果、私たちの内側で情緒的、霊的に葛藤が起こってきます。それが、自分の内に不健康な罪意識(罪責感)を生じさせ不安定にしてしまいます。また、人を赦すことのできない自分を偽善者として責めるようにもなってしまうのです。これの状態が続くと罪責感や偽善感が慢性的になってしまうことがあります。こうなると、取り扱いが難しくなってしまいます。実は、「赦しなさい」という言葉が律法的なのです。キリスト者は「〜あるべきだ」という理解から生じてきているからです。
  私たちの教会員である一人の青年が、(他の教会員の青年)を連れて来たことがあります。彼の表情は堅く、言葉に力がありません。何か思いつめいている感じが伝わってきます。相当深刻な様子でした。彼は、教会生活に疲れ、何もかもイヤになってしまっていました。彼は、ある教会のセル・グループのリーダーでした。彼は、この奉仕のために自分のほとんどの時間を費す生活をしていました。その間、リーダーに対する自分の抱いていた周囲の期待や要求に応えようと彼なりに努力してきたのです。しかし、周囲の期待とリーダー像にギャップを感じ自分の内で混乱し、心身的の疲労を覚え霊的にも低下してしまったと言います。その結果、彼の内に理想像ばかり求める周囲の人や教会に憎しみの感情を抱くようになってしまったのです。そして、彼の中にこのような状況に追い込んだ神、牧師、教会、教会員が赦せないという怒りの感情が育って行ったのです。そして彼は、「神とは何か」「教会とは何か」「恵みとは何か」等の疑問を抱えるようになったのです。そんな状況の中で外側(人々)から「赦しなさい」、自分の内側から「赦せない」という葛藤と戦いながら罪責感と偽善感を感じながら長い間苦しんできたと言います。
  このような罪責感と偽善感は赦され救われている者の葛藤です。救われているからこそ葛藤や疑問が生まれるのです。この疑問や葛藤が不信仰なものとして扱われていくと、その人は感情を抑圧し自分を抑えて教会生活を送るようになってしまいます。そして、劣等感を育ててしまい人間関係を不安定なものにしてしまいます。
  赦す行為は確信に基づいて決断する行為です。それは、私たちの意志、知性、合理性に基づく霊的な行為です。この行為は相手に対する肯定的な感情です。イエスは、十字架上で「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのわからないからです」と赦しの祈りをして下さいました。苦しみと悲しみの絶頂の中で自分を十字架につけた群衆を肯定したのです。
  私たちが赦すことのできない感情を持ったとき、その自分の感情と正直に関わりを継続していく中で赦すことが起こってきます。すると、相手を肯定することができるようになるのです。


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